江戸時代の男たちが遊んだ場所は吉原だけじゃなかった! 当時の歓楽街があった場所や様子を、作家で江戸風俗研究家でもある永井義男氏が紹介する。江戸時代の谷中には「いろは茶屋」という岡場所があったという。ここでは、その“遊び”の流れを紹介しよう。
いろは茶屋の遊びの流れ
図3に、いろは茶屋の女郎屋の入口が描かれている。
男に声をかけているのは遊女ではなく、女郎屋の女房か、女中であろう。
戯作『いろは雛形』(安政三年)で、遊びの流れを見ていこう。
いったん茶屋にあがった男ふたりが、茶屋の女将(おかみ)の案内で女郎屋に向かう。女将は提灯をさげて歩きながら、言った。
「どこにいたしましょう」
「どこでもいい」
「そんなら、ここの内にしましょう」
女将が男たちを案内して、女郎屋の土間にはいる。
醤油樽に腰かけて見世番をしていた女が、声を張り上げた。
「これは、いらっしゃいまし。さあ、お客だよ。お連れしな」
男ふたりと茶屋の女将は階段をあがり、二階座敷に落ち着く。
二階廻しのお松が顔を出した。二階廻しは、吉原の遣手に相当する。
「ご初会でござりますか」
「あいさ。おひまはあるか」
女将が、まだ客のついていない遊女をたずねた。
お松が答える。
「はい。お竹さん、お梅さん、お鶴さん、お亀さんでござります」
「そんなら、お鶴さんとお亀さんを出してくんな」
女将の指示を受け、お松が遊女を呼びに行く。
やがて、現れた遊女はひとりが二十七、八歳くらい。もうひとりは十六、七歳くらいだった。
男は気に入り、それぞれ相手が決まる。
酒と肴を取って酒宴をしたあと、いざ床入りという段になって、大勢の客がやってきた。そのため、八畳の部屋に四組の寝床を用意し、あいだは屏風で仕切っただけの割床となった。
勤番武士が怒った理由
『いろは雛形』には、諸藩の勤番武士が数人で泊まった様子も描かれている。
勤番武士は外泊は禁止されていたので、寺社の参詣などのもっともらしい理由で、許可を得たのであろう。
夜中、武士のひとりが荒々しい音を立てて、廊下を走り出した。
二階廻しが止めた。
「もし、あなた、どちらへ」
「いや、みども、面白うないによって、帰る」
「まあ、お待ちなさい」
「いんにゃ、あんでも、帰る」
相手の遊女が廻しを取っていて、なかなか自分の寝床に来ないので、武士は怒ったのだ。
二階廻しはすぐに状況を見抜き、別な寝床にいる遊女に声をかける。
「これさ、お鍋さん、お客が出ておいでよ。早くよ」
お鍋が駆け付け、二階廻しとふたりがかりで、強引に寝床に押し戻す。
岡場所の女郎屋では、こうした騒動がしょっちゅう。だが、たいていは女たちによって、怒っていた男も丸め込まれてしまうのだった。