西洋の名画と言われるアートには理由がある。教養としても知っておきたい、たった1枚の絵から浮かび上がるメーセージや、正しく読み解く時代背景のヒントを西洋美術界のエンターテイナー・木村泰司氏がコミカルに解説。ドイツ出身のアルブレヒト・デューラーは、自画像を何枚も描いた最初の画家として知られていますが、それには理由があったのです。

※本記事は、木村泰司:著『名画はおしゃべり -酔っ払いから王侯貴族まで-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

ルネサンス期に労働者から知識人へと昇格

現代では洋の東西を問わず、アーティスト(芸術家)という存在が氾濫しています。そのほとんどが自称だったとしても、現代社会は彼らを受け入れられる土壌が整っているといえるでしょう。

雑誌を開いても、かつてのテレビ番組『たけしの誰でもピカソ』(テレビ東京)ではありませんが、誰もが芸術性を持っていて、アマチュアリズムを恥ずかしげもなく発表することを奨励しているようなところがあり「謙譲の美徳」を重んじる日本人である私としては。戸惑ってしまうこともあります。

「芸術的な気質の持ち主=芸術的才能の持ち主」であるといった勘違いを、洋の東西を問わず多くの人がしていることも、歴史的に見たら信じられないことなのです。そして、現代の日本に蔓延する「芸術に携わること=格好良い」といった風潮が、何よりもいただけません。

芸術を目指す道は苦難な道であって、楽しい趣味の範疇の話ではないのです。それはプロではなく、責任のないアマチュアの話なのです。西洋美術史を振り返ってみると、芸術家であろうとした過去の巨匠たちの人生は、決して容易なものではありませんでした。

西洋において画家・彫刻家は、かつては金細工師や大工と同じように職人と見なされていました。そんな彼らの社会的地位が、最初に職人(労働者)から芸術家(知識人)へと昇格したのはルネサンス期のイタリアでした。

その過渡期となったのが、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452〜1519)、ミケランジェロ(1475〜1564)、ラファエロ(1483〜1520)の三大巨匠が活躍した1500年前後のことです。

まさにその時期、1494年にニュルンベルクからアルプスを越えてヴェネツィアを初めて訪れたのが、23歳のアルブレヒト・デューラー(1471〜1528)です。彼の故郷ドイツでは、画家は相変わらず職人と見なされていたので、イタリアでの画家の社会的な地位の高さに、彼は驚愕したといいます。

そして、紳士にして教養人という芸術家の概念を取り入れて帰国し、ドイツでも美術を職人の技から理論的基礎に基づいた自由学芸へと向上させようとしたのです。

デューラーは、自画像を何枚も描いた最初の画家として知られています。この時代のドイツでは、画家の自画像を欲しがる人などおらず、商品でもなく他人に見せるためでもない、まさに自分のためだけに描いた自画像は、そうした彼の強い自意識が表れていて大変面白いのです。

彼のナルシストぶりが「全開」している1498年の自画像では、衣装道楽だったデューラーらしく、貴族のように着飾った姿で自分自身を描き、画家==職人ではなく、貴族と対等な知識人としての姿をアピールしています。

▲自画像/アルブレヒト・デューラー (1498年/プラド美術館)

デューラーが自画像に込めた覚悟 

また彼の自画像群の中で、最も有名な1500年の自画像では、伝統的にイエス・キリストなど聖人にしか許されない正面像で、自分の姿を描いています。これはキリストが、ユダヤ社会における宗教の改革者であったように、自分も芸術後進国であるドイツにおいて、美術の改革者であろうとする使命感や覚悟を表明しているのです。

本来なら不遜にあたる正面像は、教会や公共の場所に飾るためのものではなく、自分のために描いた自画像だったため、世間的に問題視されませんでした。彼がこのような自画像群を描いた背景には、ドイツでは芸術家という概念が、イタリアのように浸透していなかったという事情がありました。

当時のドイツにおける、画家の社会的地位の低さが浮かび上がります。いくらデューラーが芸術家意識を持とうと、イタリアと違って芸術家という概念自体が浸透していませんでした。高い自意識の持ち主だったデューラーにしてみれば、忸怩たる思いにかられたこともあったでしょう。

▲毛皮を着た自画像/アルブレヒト・デューラー (1500年/アルテ・ピナコテーク)

ちなみに、プライドの高かったデューラーは、人文学者と付き合うことを好みましたが、当時のエリート教育であるラテン語を、彼らのように読み書きできなかったことは、彼のコンプレックスのひとつでもありました。

また、古代ローマの伝統があり、ルネサンス発祥の地であるイタリアと違い、当時のドイツの王侯貴族の文化レベルはまだ低く、デューラーのドイツの顧客たちは、生活空間をフレスコ画など絵画で埋め尽くす習慣もありませんでした。

美術史では、画家としてよりも版画家として名高いデューラーですが、それにはイタリアの芸術家と違い、版画で生計を立てるほかなかった彼が置かれた社会的状況があったのです。版画家としてのデューラーの名声の陰には、ドイツとイタリアとの美術市場の違いがあったのです。

極東の島国に暮らす私たちは、どうしてもヨーロッパをひとくくりにして捉えがちです。しかし、イタリアとアルプスを隔てた北ヨーロッパでは、芸術的土壌があまりにも違い過ぎていました。そのため、ドイツのみならず北ヨーロッパにおいては、イタリアのように芸術家という概念が浸透するまでには長い時間を要したのです。 


西洋美術史家・木村泰司さんが2020年9月13日ご逝去されました。
謹んでお悔やみ申し上げます。