ブレジネフ政権の下で1967年にKGB議長に就任したのが、その後15年間という歴代最長任期を務めることになるアンドロポフでした。ミトロヒンは、KGBの部外秘の機関誌や第一総局の文書を日常的に読んでいる中で、ソ連の体制への絶望が深まっていきました。評論家・江崎道朗氏の調査担当を務める山内智恵子氏が、なぜミトロヒンが命の危険を冒してまでも、文書を持ち出したのか解説します。

※本記事は、江崎道朗:監修/山内智恵子:著『ミトロヒン文書 KGB(ソ連)・工作の近現代史』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

秘密工作により圧殺された「プラハの春」

アンドロポフが就任後最初に「ハンガリー・コンプレックス」を発揮したのが、1968年、チェコスロヴァキアの「プラハの春」圧殺です。そしてこれが、ミトロヒンにとって重要な転機になりました。

「スターリン批判」後のソ連の「脱スターリン化」の波が東欧諸国に及び、1968年のチェコスロヴァキアでは、その年1月に就任したドプチェク第一書記が「人間の顔をした社会主義」をスローガンに掲げて、事実上の検閲廃止や市場経済の導入など、一連の自由化政策を開始しました。これが「プラハの春」です。

▲プラハの春 出典:ウィキメディア・コモンズ

プラハの春の背景には「スターリン批判」の影響で、チェコスロヴァキアでも高まっていた、冤罪で粛清された人々の名誉回復や、計画経済の行き詰まり打開などへの国民の要求があります。

ドプチェクは、ある程度の民主化改革を行うことによって、国民の支持を得て、共産主義体制を維持することを意図していたのであって、全面的な民主化や共産主義体制の解体を目指していたわけではありませんでした。

しかし、KGBの秘密工作と同年8月20日の、20万人のワルシャワ機構軍の侵攻(チェコ事件)によって、チェコスロヴァキアの民主化への動きは圧殺されてしまいます。

当時、ミトロヒンは東ドイツに赴任しており、BBCロシア語放送などで、密かにプラハの春についての報道を聞くことができました。

自慢話で“ピンときた”上官の秘密工作

チェコ事件の1カ月前、第一総局の特殊作戦部門所属のある大佐が、ミトロヒンに「ちょっと何日かスウェーデンに行ってくる」と言いました。大佐の口ぶりから、本当の行き先がスウェーデンではないことが明らかでした。大佐が所属していた特殊作戦部門は、暗殺や破壊工作や拉致のエキスパートが集められていた組織です。

大佐は戻ってきた数日後、ミトロヒンに「明日『プラウダ』(ソ連共産党機関紙)に面白い記事が出るよ」と、自分の出張と関係のある記事であることをほのめかしました。

大佐は秘密をはっきり明かしたわけではありませんし、ミトロヒンに伝えたのは『プラウダ』の記事、誰でも読める公開情報です。特殊作戦は絶対に表に出せない秘密に決まっているので、漏らせば当然重大な規則違反です。

しかし一方で、インテリジェンスに関わる人たちは、身内の間で自慢話をしたいのです。元KGB情報将校たちの回顧録には、初めてKGBのビルに足を踏み入れたとき、廊下を行き交う人たちが「自分たちは、一般の国民が知らないことを知っている」という独特の優越感を漂わせていることを感じた、という類の話がときどき出てきます。

翌日『プラウダ』に掲載されたのは、“帝国主義者の隠匿武器”がチェコスロヴァキアで発見された、というニュースでした。ミトロヒンは、大佐と特殊作戦部がチェコスロヴァキアの改革派に濡れ衣を着せるために工作を行ったのだということが、すぐにピンときました。

ミトロヒンが新聞記事で“すぐにピンときた”のは、彼自身が諜報の訓練を受け、海外での工作の経験もある情報畑の人間だからでしょう。こういう人が、KGBの機密文書を読み解いて作成したものだということが、ミトロヒン文書の非常に大きな強みです。インテリジェンスの実務に関わったことがない人が読むのとは、着眼点や読み方が全く違うはずです。

▲ドプチェク 出典:ウィキメディア・コモンズ

「人間の顔をした社会主義」を、戦車の大群で踏みにじるための根回しを、KGBが周到に行っていたことが、ミトロヒンにはすぐに分かったに違いありません。ソ連の指導者たちが、プラハの春を軍事侵攻で潰したことは、ミトロヒンにとってソ連社会が改革不可能であることの証明に他なりませんでした。

プラハの春圧殺以後、ミトロヒンはソ連体制を、共産党「ノーメンクラツーラ」と呼ばれる特権階級、およびKGBの「三頭の怪物」が、ロシア人民を奴隷にしているイメージで見るようになります。