日本の半島支配は中国南朝も認めていた
韓国の古代史については、私の理解する朝鮮半島における国家成立史を、中国との関連を軸にまとめてみます。
満洲南部から北朝鮮あたりに、漢人の入植者が古朝鮮(箕子朝鮮・衛氏朝鮮)といわれる国を立てていましたが、漢の武帝はこれを滅ぼして平壌に楽浪郡を置くなど地域全体を帝国に編入しました。
その後、周辺部は間接支配しかできなくなり楽浪郡は健在でしたが、公孫氏という氏族が独立王国的に支配し、38度線付近も開発して帯方郡を置きました。しかし、魏が公孫氏を滅ぼして直接支配に戻しました。
この時期に、帯方郡へ使節を送ってきたなかに邪馬台国もありました。しかし、楽浪郡などは313年に南下してきた高句麗に滅ぼされ、一方、南からは日本を統一した大和朝廷が勢力を伸ばしてきました。また、未開地域だった半島南部の小国のなかで、新羅や百済が徐々に成長してきました。
『日本書紀』や好太王碑によれば、この2国をはじめとする半島南部の諸国は、高句麗と日本に支配されることが多かったようです。そして日本は、対高句麗外交を有利にするために南朝に誼(よしみ)を通じ支配権を認められました。これが「倭の五王」の使節です。
しかし、475年には百済は高句麗に攻められて南へ移り、日本の支配下にあった土地(熊津、現在の公州)に新しい国土をもらい、日本と同盟して経済的に発展しました。
日本は支配地域〔これを任那と『日本書紀』では呼んでいます。統治形態の詳細は不明ですが、日本人が多く住み勢力圏をなしていたことは間違いありません〕を新羅には侵食され、百済には譲らされ、562年には残った支配地も新羅に奪われます。
日本は任那〔韓国では伽耶(かや)と呼んでいますが、彼らの呼称に従う理由はありません〕の鉄を狙っていたとか、鉄を産する任那諸国は日本より優位だったという人もいます。しかし、青銅器の秦が中国を統一しましたし、日本でも鉄の産地がそんなに優位だったら、出雲が大和に勝ち、尼子氏が毛利氏に勝っていたはずで話になりません。
そののち、日本は百済と連携しつつ、新羅から領土を奪還しようとし、新羅も日本に貢ぎ物の提供で妥協を図りました。中国は南北朝の時代だったので、高句麗は北朝、日本や百済は南朝との連携を模索しました。新羅は西側の海岸に出るのが遅れたので、中国との接触に出遅れていました。これが、隋が中国を統一するまでの朝鮮半島の状況です。
※本記事は、八幡和郎:著『歴史の定説100の嘘と誤解 世界と日本の常識に挑む』(扶桑社:刊)より一部を抜粋編集したものです。