国内からの注目度が一変した「竹島の日」
韓国による竹島の不法占拠以来、日本は島の領有ができないどころか、周辺水域での漁業にも支障をきたしていた。そのため、竹島の地元である島根県は、日本政府に対し積極的に領土問題の解消を求め、平和的・外交的手段による解決を強く訴えてもきた。
その島根県が「竹島の日」条例を制定して、領土権の確立を求めることになったのは、1994年に国連の海洋法条約が発効し、98年末に新たな「日韓漁業協定」が結ばれたからである。
だが、この日韓漁業協定は、日本そして島根の漁業にとってはマイナスでしかなかった。日本海の好漁場である大和堆が共同管理水域に含まれたうえ、日本漁船は竹島の周囲12カイリ内で漁労活動ができなかったからだ。 そのため、数年とたたないうちに韓国漁船による違法操業が行われ、大和堆は「乱獲の海」と化してしまった。
しかも韓国政府は、1996年2月に竹島に接岸施設の建設を始めると発表。竹島占拠の 強化と国連の海洋法条約の発効により、排他的経済水域の基点にしようとしていることは明らかだった。
このとき、日本政府は韓国側に抗議したが、反発が強まると1998年、竹島問題を棚上げ して「日韓漁業協定」を結び、竹島周辺に暫定水域が制定されたのである。つまり、日本政府は表向き、韓国による「竹島占拠」を強める動きに抗議はしたものの、結局は漁業協定を結び、さらには日本の漁船は竹島に近づけず、大和堆では経済的に大打撃を受けることになったのである。
それにもかかわらず、日本では政官民全体で竹島問題に対する関心が薄く、風化の一途をたどりつつあった。「日韓関係」のなかでも、竹島問題が全国的にホットな話題となる昨今とは、全く状況は違っていたのである。
1965年の日韓国交正常化以降、漁業権の問題以外ではほとんど論じられることはな く、忘れられた存在だった竹島問題への注目度が一変したのは、2005年、島根県が「竹島の日」条例を制定してからのことなのだ。