「落語、すげぇ・・・」打ちのめされた衝撃

赤レンガでは、たまに音楽以外のイベントも行うことがある。たとえば年に2回、落語の独演会が催されるのだ。

オーナーの知り合いのプロデューサーの提案で、毎年開催されるようになったらしい。なんでもそのプロデューサーは、一人の落語家に惚れ込んで、わざわざ寄席の楽屋へ訪ねていって、レストランでの独演会をやってくれと口説いたらしい。オーナー自身も落語が好きで恒例化したという。

「おまえ、落語知ってるか?」

「いやぁ、知らないっす」

オーナーに聞かれ、俺は首を横に振った。当時の俺は、落語のことを全く知らなかった。好きも嫌いもない。全く縁がなかったのだ。

(落語って……着物を着たおじいさんが「えー」とか言ってるやつかな。よくわかんねぇなぁ。でもなんでオーナーは俺にそんなこと聞くんだ?)

『笑点』を見たことはあるが、あれが落語なのかどうなのか、出演者は着物を着ているが、あの人たちが落語家なのかどうなのかすら知らなかった。

「おまえ、役者になりてぇんだろ。落語くらい知っておけよ」

独演会当日。落語家がステージにこしらえられた高座(芸人が芸を演じる一段高くなった場所)にのぼった。

春風亭鯉昇(りしょう)[のちに改名して瀧川鯉昇]

俺には“着物を着た禿げたおじさん”としか思えなかったが、周囲に合わせて拍手をした。

落語家は深く頭を下げて『芝浜』という噺をやり始めた。夫婦の愛情を描いた人噺の名作中の名作。実に感動的な噺なのだが、当時の俺は当然、知らない。

古典の言葉遣いがところどころわからなかったが、気がつけば俺は身を乗り出して聴いていた。すごくいい噺だ。大きな拍手のなか、また深く頭を下げる落語家の姿を見たとき、全身が震えた。

すごい。男性も女性も呑み仲間たちや大家さんも、1人で何役も演じている。セットも何もない。座布団だけだ。手には扇子と手ぬぐいしか持たず、30分もたった1人で、これだけたくさんのお客さんを引き込んでいく!

「落語、すげぇ……」

涙ぐんでいるお客さんもいるなか、俺もまた打ちのめされていた。役者は複数人で舞台に上がり、躍動する。それはそれですごいし、面白い。しかし落語家はたった1人で座布団の上で噺をするだけだ。それなのに、どうして俺はこんなに心を揺さぶられたんだろう。この衝撃はなんなんだ。

▲“師匠”春風亭鯉昇との出会い イメージ:PIXTA

“師匠”春風亭鯉昇との出会い

役者の養成所にはもう通っていなかった。ボイストレーニングや演技の練習などを決められた時間割で、やみくもにこなしていくことが嫌になってしまっていた。俺が向上心を持って、自分なりに課題を見つけて精進することができれば、また違っていたかもしれない。役者の世界は深く、素晴らしいものだ。しかし、当時の俺はこんな心境で、落語界の厳しさも知らなかったから、目の前で見た衝撃にただただ感動していたのだ。

呆然としている俺にオーナーが近づいてきた。

「おい、どうだった? 落語は」

「はい。すごかったです。究極の一人芝居なんですね」

その後、打ち上げの席で俺はその落語家に近づいていった。

「あのう」

「はい?」

「弟子にしてください」

「……へ?」

小柄な落語家は目を見開いた。そりゃ驚くだろう。目の前にいきなり180センチを超える目つきの鋭い若者が立ち塞がって、弟子にしろと言うんだから。

「……落語はよく見るんですか?」

「いや、知らないっす。今日、初めてっす」

「……そうですか」

「……はい」

「……うーんとね、新宿、池袋、浅草、上野あたりに寄席というのがあります」

「よ、せ……」

寄席とは、落語や講談、漫才、漫談、奇術、紙切りなどの芸事を楽しめる演芸場のこと。毎日、昼席と夜席があり、一回の公演に落語家が10人ほど出演する。当然、この当時の俺は知らなかった。

「寄席というところが、落語家の仕事場になります」

「……はい」

「一回、寄席をごらんなさい。それで、いいなぁと思ったら、また私んとこに来なさい」

春風亭鯉昇はそう言い残し、去っていった。

▲新宿末廣亭 出典:PIXTA