ようやく認められた“楽屋入り”

「着付けができる、着物を畳める、太鼓を一通りおぼる、噺を一席覚える……まぁ他人様にご迷惑かけないレベルにはなったかな。そろそろいいだろう」

21歳になったばかりの俺は、師匠からとうとう楽屋入りを許された。弟子入りしてから2年弱。長かった長すぎた。一日も早く楽屋入りしたくて、自分なりに頑張ってきた。それでも、なかなか前座にしてもらえなかった。

当時の落語界は、2021年現在と比べてしまうと明らかに低迷期だった。寄席の昼席にお客さんが10人いないことも珍しくなかった。出演者の総数よりもお客さんが少ないなんて状況だったのだ。落語家を志望する若者もおらず、前座の数も少なかった。だから、いつでもポストは空いていたのだ。それでも俺はずっと見習いのままだった。

弟子をいつ楽屋に入れるかは、特に決まりはない。師匠それぞれの匙加減だ。ほとんど見習い期間はなしで、すぐに楽屋入りさせる場合もある。半年くらいの見習い期間を経て前座になる人も多い。ただ、2年は聞いたことがない。

半年もかかってしまったが、着付けも着物の畳み方も太鼓も落語一席も一通りは覚えた。それでも楽屋には入れてもらえず、そこからが長かった。師匠はきっと俺を試していたんだろう。本気で落語家になる気があるのか? 見習い期間で音を上げるようなら、真打までの長い道のりを耐えることなんてできるわけがないと。

たとえば兄弟子の鯉橋兄さんは、30代で弟子入りしている。社会経験を積んできて、人間として形成されているから、師匠もそのつもりで接したのだろう。鯉橋兄さんはもっと短い見習い期間で前座になっている。

かたや、俺は高校を一日で中退し、暴走族を経て17歳で上京してきた。社会経験もクソもない、どうしようもない悪ガキ。師匠は心を鬼にして見極めてくださったに違いない。半端な人間を落語界へ送り込んではいけないという責任感もあっただろうし、俺が落語を辞めるのであれば傷が浅いうちに次の道を選ばせたい、という親心もあっただろう。

母に伝えた「俺、落語家になる」

昭和の落語家たちと比べると、平成の落語家たちは入門時期が遅い。大学の落研(落語研究会)出身だったり、鯉橋兄さんのように社会人を経てという人が多いのだ。俺のように中卒で10代で弟子入りするケースは滅多にない。

しかも師匠にとって、俺は6年ぶりの弟子だった。より慎重になったはずだし、もしかしたら何の手垢もついていない若者を、“まっさら”から育ててみたいというお気持ちもあったのかもしれない。

前座になることが決まり、俺は久しぶりに母へ電話をかけた。弟子入りを決めたときにも、落語家の道へ進むことを伝えてはいなかった。楽屋入りが決まったら、スタートラインに立ったら伝えようと強く心に決めていたのだ。

もしも弟子入りの時点で伝えていて、半年もたたないうちに「やっぱ辞めた」というオチになったら恥ずかしい、というのもあった。

「…………あ、俺だけど」

「うん」

「俺、噺家になるから。噺家っていってもわかんねーか。落語家のことね。落語家になるから」

「そうなんだ」

よくわかってない返事だなぁ。まぁしょうがない。

「……そんだけ。じゃ」

「うん」

俺は電話を切った。あっさりしたものだ。普通の母親だったら「落語家? なにそれ? あんた役者になるって言ってたでしょ。落語家って、どういうこと?」という感じのリアクションになるだろう。

母はなにしろ、俺が暴走族を辞めてまっとうな社会人になったことが嬉しかったのだろう。もっとも落語家を、まっとうな社会人と定義できるかどうかは微妙だが、とにかく俺が社会に迷惑をかけず、やりたいことや目標を持って進んでいることに、心底ホッとしたんだと思う。だから俺が「会社員になる」とか「調理師になる」とか言っても、おそらくは同じ反応だったに違いない。

後日。師匠の名古屋公演があり、俺はかばん持ちとして同行した。楽屋に挨拶に来た母が、師匠にペコペコ頭を下げて言った。

「すいません。うちの子がご迷惑をお掛けして……落語家にしていただくということで、本当にありがとうございます」

「お母さん。うちは更生施設じゃありません。なれるかどうかは本人の努力次第ですから」

▲母に伝えた「俺、落語家になる」