ずっと瀧川鯉斗でいなきゃ駄目なんだ

落語の世界は、出世魚のように前座・二ツ目・真打という順番で昇進していく。が、これは正確ではない。細かく分けると、前座の前にも段階がある。

最初から説明すると、まずは“弟子入り”。しばらくの見習い期間を経て“楽屋入り”を許される。楽屋入りをしてからも、しばらくは見習い期間が続き、やっと“前座”になるのだ。

前座のなかにもランクがある。修業期間が長くなって後輩の前座が入ってくると、徐々にランクアップし、最終的には前座のトップである“立て前座”になる。この前座の責任者を経て、二ツ目に昇進する。ここでもひたすら修業を積んで、やっと真打に昇進する。実に長い道のりだ。

大相撲や将棋の世界と似ている。たとえば大相撲。仮に大関三役レベルの力を持った、めちゃくちゃに強い10代の力士がいるとする。しかし彼が大相撲の世界へ入っても、いきなり幕内・十両になることはできない。序ノ口・序二段・三段目・幕下と各段階を勝ち抜いて、やっと給料が発生する、つまりプロの関取である十両に昇進する。さらに十両で勝ち抜いて幕内へ上っても、三役・大関・横綱までは遥かなる道のりだ。

将棋の世界も然り。あの藤井聡太くんも、奨励会というプロ養成機関で4年間揉まれてからプロになっている。

少年時代から「落語の天才」と呼ばれた春風亭小朝師匠も、弟子入りから真打昇進まで10年間を要している。36人抜きを果たして真打に抜擢された歴史的な落語家ですら、10 年かかったのだ。

弟子入りを許された俺は、まずは楽屋入りを目指すことになった。師匠はマンション住まいなのだが、自分の部屋の隣にもう一部屋、稽古部屋を借りていた。俺はその部屋に通うことになった。

ある日の稽古風景。噺の稽古は、師匠と向かい合ってつけていただくものだから、すごく緊張していた。

「やってごらん」

「はい。お願いします!」

「うむ」

「付けまつげは取れやすいっていうことを申しまして」

「ん? もう一度はじめっから!」

「付けまつげ……」

「……俺、そんな風に教えてない。でも合ってる!」

「続けてやってごらん」

「付けま……付け焼き刀は剥げやすいということを申し……」

「駄目だ。小口直也君が出てる。瀧川鯉斗じゃないと。ずっと瀧川鯉斗でいなきゃ駄目なんだから」

「はい、すいません」

▲「ずっと瀧川鯉斗でいなきゃ駄目なんだ」 イメージ:PIXTA

「元暴走族」が“強み”変わった瞬間

MDに吹き込んでもらった師匠のお手本を何度も聞き、暇を見つけては自主練習に励んだが、たった15分の噺を覚えるのにずいぶん苦労した。着付けや太鼓と同じく、半年もかかってしまったのだ。

途中で何度もくじけそうになった。「もう辞めちまうか」と何度思ったかわからない。丈夫な体を資本にして暴走族で好き放題やってきて、まるで正反対の、頭が資本の落語の世界に飛び込んだ。人種も環境も何もかもが違う。力ずくでは何一つ解決できない。おまけに、とびきり不器用で馬鹿ときた。どうして「弟子にしてください」なんて言っちまったんだ。早まったな……そう何度も後悔した。

「完全に場違いだ……」

床に投げ出された帯を見つめて呟いたこともある。このまま続けたら1年後には師匠と同じ頭髪になってしまいそうだ、と本気で悩んだりもした。

なんでこんな世界に入っちまったんだ、明日、師匠に「辞めます」って言おう……寝つけない夜が何度もあった。

それでも翌日、嫌々ながらも稽古部屋に行くと、師匠が手取り足取り教えてくださった。忙しい合間を縫って、俺のための時間を作って、根気よく向き合ってくださった。そんな姿を目の当たりにするたびに「辞める」という言葉を飲み込んだ。きっと師匠は俺の揺れる胸の内をわかっていたはずだ。こいつ揺れてるな、と。だからこそ辞めてたまるか、と踏ん張ることができた。

師匠が地方出張で不在の時は、鯉橋兄さんが稽古をつけてくださった。「辞めんなよ、辞めんなよ」と言いながら太鼓を教えてくださった。

そして辞めようと思うたびに、心の中に浮かんだのはオーナーのことだった。まるで父親のように面倒をみてくださった人を裏切ることはできない。暴走族のときだって、裏切りだけは絶対に許されないことだった。

そうなのだ。元暴走族という過去が消えない限り、逆にそのころの強みを生かしていくしかないのだ。不器用だけど、馬鹿だけど、根性だけは入れていこう。

夜光虫たちには、彼らなりの美学に基づいた掟があった。先輩への敬語、挨拶は絶対。時間厳守。

鯉昇師匠は遅刻をすごく嫌う。だからというのもあったが、俺は暴走族時代からの習慣で一度も遅刻をしなかった。

「おまえは絶対に遅刻をしないな。さすがは暴走族だ」

覚えは悪いけど、時間はかかっても、できることをひとつひとつ愚直に積み重ねていくしかない。そう言い聞かせて稽古を続けた。