ブランド品や貴金属の買取専門店「なんぼや」などを運営するバリュエンスグループ。その代表を務める嵜本晋輔さんは、元Jリーガーだ。高校を卒業してから3年間、ガンバ大阪に所属していた。

そんな嵜本さんの「土壇場」はやはり、プロサッカー選手として「戦力外通告」を受けたときだった。

「『その時』に僕は、自分自身の能力やスキルといったものを俯瞰(ふかん)して捉えることができたんです。結果、サッカーを続けるのではなく、手放すと決められたというのが、人生の大きな意志決定だったんです」

▲「俺のクランチ」第8回は、元Jリーガーで会社経営者の嵜本晋輔さん

通告直後は「他責思考のかたまりになっていた」

3年間のプロサッカー選手生活を手放した嵜本さんは、のちに経営者となり、自身の会社である株式会社SOU(現:バリュエンスホールディングス株式会社)を東証マザーズへ上場させた。しかも、今では嵜本さんの古巣・ガンバ大阪とスポンサー契約を結んでいる。自身に戦力外通告を突きつけたチームを、いわば「応援」しているかたちだ。そこにわだかまりのようなものはないのだろうか?

「僕は、ガンバ大阪に感謝しかないんです。クビになったことで気持ちを切り替えることができて、今も成長し続けられている。それは、あのときの挫折があるからです。僕の人生のターニングポイントだったんですよね。あの経験がなかったら、今の僕もないとなると、サッカー界、スポーツ界には恩返しをしたいと思っています」

自身を「ポジティブシンキング野郎」というように、どこまでも前向きだ。

だが、嵜本さんもすぐこの境地に到達できたわけではなかった。ガンバ大阪から戦力外通告を突きつけられたときには「絶対に見返してやる!」という気持ちになっていたという。

ガンバ大阪を退団したのち、嵜本さんは佐川急便に入社。同社のサッカーチーム佐川急便SC(当時)でプレーした。佐川急便SCは当時、Jリーグから見れば下部組織であるJ2やJ3のさらに下に位置するJFLのチームだった。

「J1のチームからJFLにいったので、2つ下のカテゴリーに入ったわけです。僕自身は『そこまでレベルは高くないはずだし、自分の思い描いたプレイができるはずだ』という思いでいたんです」

だが、それは思いあがりだった。JFLで活躍し、いずれガンバ大阪の強化部を見返してやるという目論見は、わずか数ヶ月で崩れた。JFLで自身のプレーが通用しなかったのだ。

「僕の知らないあいだに、JFLのサッカーのレベルが非常に高くなっていたんです。それに自分自身、ガンバ大阪での3年間でプロフェッショナルを追求できていなかったこともあって、思考がいいサイクルで当時はまわっていなかった。自責・他責でいうと、他責思考のかたまりになっていたんですね」

ここで嵜本さんは、初めて自分自身を客観的に見つめた。

「できると思っていたのは自分だけだった。本当はまったく通用しないのに、自分だけができると信じ込んでいることがわかったんです」

▲通告直後は他責思考のかたまりになっていました

「できたこと」よりも「できなかったこと」を考える

その結果、佐川急便に入って3ヶ月目には、すでに引退を考え始めていた。「感情が意思決定を阻害する」と嵜本さんは言う。感情をいったん横に置いて、自分の能力を見極めることが次のステップにつながるのだと。だが、言うのは簡単だが、やるのは難しそうだ。

「アスリートというのは、自分に都合のよい解釈をしちゃうんです。できなかったことよりは、できたところを見て、そこを高めていくべきだという考え方をしたり、できなかったことに対する認識を怠ってしまうんですよね」

アスリートは「自分はもっとできるはずだ」という思いに駆られて、自分自身の評価を見誤ってしまいがちだという。嵜本さんは、あえて「できたこと」よりも「できなかったこと」が、どれだけあるかに向き合って考えた。

「自分の視点だけだと、自分を美化してしまうんですよね。それまではシュート1本パス1本にしても、自分の狙ったところへ、どれだけ正確にボールがいったかというところを見ていなかった。ところが、客観的な視点で見始めたら、明らかに精度が下がっていたし、そのギャップが埋まるどころか、広がっていく一方だったんです」

自身の限界を冷静に見つめることができたのは、父親が自営業をしていたことも関係しているだろうと嵜本さんは見ている。

「僕は幸いにも商売人の家系に生まれたからかもしれませんが、自分自身の価値と今のマーケットで求められている価値というものを比較することが昔から自然にできていたこともあり『これは引退しないとまずいな』という風に思えたんです」

「俺のところに来たら」。サッカー選手を引退すると決めた嵜本さんに声をかけたのは、父親と2人の兄だった。彼らは家具や家電を買い取り、修繕して販売するリユースショップを営んでいた。

サッカー選手をはじめ多くのアスリートが、引退後の進路に希望を見いだせず現役にしがみつくしかない状況のなか「自分は環境に恵まれていて、帰る場所があった」と語る。