たった「ひとり」でも土壇場は乗り越えられる

起業、タリーズジャパンの創業、上場、国会議員と、いくつもの挑戦をしてきた松田公太さん(51歳)。挑戦の数だけ「土壇場」があった。

松田さんにとって最初の「土壇場」は1997年、東京・銀座にタリーズコーヒーの1号店をオープンさせた直後に訪れた。端的にいえば、客が入らない。「絶対に黒字になると思って始めた店だったんですが、実際は数カ月間、赤字が続いていました」。松田さんは、アメリカのタリーズから1年契約で日本での営業権を獲得していた。つまり1年以内に結果を出せなければ、更新はないという意味だった。

1号店を作るにあたって、松田さんは同じ通りにあるマクドナルドやPRONTO(プロント)への人の出入りを調べあげていた。「3週間くらい張り付いて『正』マークを付けながら、店に何人入っていくかを数えました。私の概算では、プロントが月に約1000万円の売り上げ、マクドナルドが2000万円くらいだったんですね。うちが店を出したら、知名度はありませんけど、まあ600万円はいくだろうと。それはちょうど損益分岐点でもあったんです」。しかし、この計算が甘いものだったと知るまで、時間はかからなかった。

「僕が見ていた歩行者は、たまに銀座や近くの歌舞伎座に遊びにきた人たちだと分かったんです。飲食業はリピーター商売なんだってことを、当たり前のことなのかもしれませんが、このとき身をもって知りました」

そこで松田さんは周辺のオフィスをまわって「営業」をかけていく。リピーターとなり得る客を獲得するためだ。銀座三越の「デパ地下」で従業員にチラシを配り、注意されたこともあったという。しかしただの無謀ではなかった。チラシ配りをきっかけに三越の役員にタリーズの存在を知ってもらうことができた。少しずつ客が増えていった。タリーズが使っているコーヒー豆には自信があった。

「あそこのコーヒーは美味しい」と口コミが広がり、やがてリピーターとなった。「土壇場」をなんとか乗り切ることができた。翌年、松田さんはタリーズコーヒージャパンを設立。社長に就任した。

圧倒的なバイタリティー。松田さんが頼ったのはたった「ひとり」、自分だけだ。

▲圧倒的なバイタリティーでタリーズをメジャーチェーンにした

「自分ひとりでも、必死になって動けばなんとかなる。どんな状況になっても乗り越えていけるっていう自信があったんです」

松田さんは「ひとり」で乗り切ってきたのには、弟を亡くしたことが関係しているかもしれない、と振り返る。5歳のときから高校を卒業するまで、海外で暮らした松田さんにとって、弟は親友でもあり、唯一の心許せるよき相談相手だった。

「一緒に日本を離れて育って、年齢も1歳半しか離れていなくて。その弟が、病気になって21歳で亡くなってしまった。そこから相談できるとか、頼るべき人っていうのがなくなった気がします」

自分で考えて、自分で結論を出し、自分で進んだら、自分しか責任をとらなくていい。「それが自分に合っている」という。