光秀が謀反を起こした本当の原因

明智光秀さまが謀反を起こされた理由が何かについては、秀吉から聞いた話と私なりの思いを交えて、もう少しお話ししておきたいと思います。

本能寺での襲撃に踏み切られた直接の動機は、京で信長さまだけでなく信忠さまもごく僅かの家臣だけを連れて京に滞在されいたことです。柴田勝家さまや滝川一益さまも秀吉も、それぞれ上杉、北条、毛利と対峙中で、徳川家康さまも堺見物というのを知って、天下人になれる絶好のチャンスと、思い切った行動に出られたこと以外にあり得ません。

黒幕や協力する者がいる大きな謀(はかりごと)だというには、あまりにも準備不足でおられましたし、そのあとの行動にも無駄が多すぎます。

大坂では、光秀さまの娘婿で信長さまの甥である近江大溝城主の織田信澄さまが、丹羽長秀さまや織田信孝さまに殺されてしまいましたが、光秀さまは、長秀さまが知るより先に信澄さまに報せ、すぐにでも上洛するように奨めるべきでございました。

信澄さまは、信長さまに反逆して殺された信行(信勝)さまの忘れ形見ですが、非常に優秀なので信長さまに取り立てられておられました。京での馬揃えのときの序列では、信忠さま、信雄さま、信包さま(信長の弟)、信孝さまに続く一族でも四番目の扱いでございました。

のちにお話しいたしますが、公方(将軍)さまこと足利義昭さまにも、はたして山崎の戦いの前に連絡をとられていなかったようで、どう協力してもらうかも、あまりお考えになっていたとは思えないのでございます。

一方、光秀さまのような大名が、すべてを投げ打って思いきった事件を起こされたのには、信長さまのなさりようが人の心を読めていないものだったと言うことはあると思うのでございます。

令和の皆さんが、自分の会社の社長に、信長さま、秀吉、家康さまの誰がいいかとお考えになってみるといいと思います。

▲社長にするなら誰? イラスト:PIXTA

家康さまはひどくケチな人だと皆申します。家来が大きな手柄を立ててもたいして加増されません。そのかわりに、戦死した家臣の遺族などは、とても手厚く厚遇されています。

うちの秀吉は、人情の機微に通じて、上げたり下げたりが上手なのでございます。思いきった抜擢もいたしますが、失敗すると改易など平気でいたします。ところが、しばらく謹慎したり浪人して反省していると、また、チャンスをあげておりました。

たとえば、織田信雄さまと小牧長久手で戦ったのち、和睦するときには、大納言、ついで内大臣という官位を斡旋いたしましたし、駿河への転封を拒否されて改易しましたが、やがて嫡男の秀雄さまを大名に取り立て、信雄さま自身もお伽衆にして側に置いて十分な隠居領をさし上げています。いちど内大臣になれば、その序列は一生維持できるのでございますから、そんな惨めなことではありません。いってみれば、立派なオフィスに専用車、秘書付きの相談役のような立場です。

こういうやり方ですから、秀吉や家康さまの人事には不満をもっても謀反するほどのことにはなりません。