橋を焼き落として時間稼ぎ

本能寺の変について、秀吉のことばかり紹介してまいりましたが、長浜城にいた私たちのこともお話しせねばなりません。

秀吉は天正元年(1573年)に、浅井氏の旧領である湖北三郡(坂田・浅井・伊香郡)を拝領し、しばらくは小谷城の麓にある清水谷の館におりました。

しかし、商工業が栄えた城下町を創りたかった秀吉は、今浜と呼ばれていたところに築城し、信長さまの名から一字拝領して長浜城と改めたのでございます。私や秀吉の母のなか(大政所)も、ここに引っ越してまいりました。この城は、湖水を堀に引き込んだ「水城」でございました。

お城の建物は、山内一豊が城主だった天正13年11月(1586年1月)の天正地震で、ほとんど全壊してしまいました。一豊と千代の一人娘である与祢が気の毒に建物の下敷きになって亡くなったのは、このときのことでございます。

そののち、江戸時代の初期に、内藤信成が城主になって再建されましたが、大坂の陣ののちに廃城になり、彦根藩領の商工業都市として栄えました。しかし町割りなどは、私たちの長浜城時代のままで、町衆の方も秀吉の町と思ってくださっているようでございます。

長浜城にいた私には、6月2日明け方、事件の翌朝に京都から使いがまいりました。天下太平の江戸時代ではありませんから、何か変事があれば、できるだけ早く知らせが来るように、どの大名も手配しておりました。そうでないと命にかかわります。

京から長浜まで街道を通ると80キロくらいでございます。使いの者が、歩いてきたのか、馬や駕籠を使ったのか、船を調達できたのかは聞きませんでしたが、丹後におられた細川藤孝さまなどのところにも、同じ日に知らせがいったようです。そして安土からも知らせがございました。

▲山道を必死で逃げて美濃国へ イメージ:PIXTA

そうなると一刻も早く逃げ出すしかありませんが、そうした時の心づもりも少しはしてありました。私は秀吉の母のなかなどを連れてほとんど何も持たずに、長浜から北東へ向かい、いざというときのためにかねてから考えていたとおり、伊吹山の北側の山奥から七廻り峠を越えて美濃国への道を逃げることにいたしました。

逃げる時間があったのは、甲賀忍者を束ねる土豪で瀬田城を守る山岡景隆が、事件を聞いたらすぐに瀬田の唐橋を落としてしまったので、明智光秀さまもいったん居城の坂本城に入り、応急修理ができた6月5日になって安土城に入られたからでございます。