近年の「アベノミクス」によって株価が上昇したとはいえ、バブル崩壊以降、多くの国民は未だ日本経済が低空飛行を続けているというイメージを抱いているだろう。これまで数々の財政改革に携わってきた高橋洋一氏によれば、その根本的な原因は黒田総裁以前の日銀による「雇用の無視」と、マスコミの「半径1メートル思考」にあるという。
※本記事は、高橋洋一:著『給料低いのぜーんぶ「日銀」のせい』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
物価の「安定」だけでは経済は発展しない
中央銀行である日銀の目的について、日銀法では「我が国の中央銀行として、銀行券を発行するとともに、通貨及び金融の調節を行うこと」および「銀行その他の金融機関の間で行われる資金決済の円滑の確保を図り、もって信用秩序の維持に資すること」と規定している。
そして、その理念として「物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資すること」を掲げている。
すなわち、国の金融機構の中核である中央銀行は、金融政策を通じて、物価の安定と経済の発展に対して責任を負っていると言っているわけだが、実際はこの「物価の安定」に加えて「雇用の創出」も日銀の重要な役割なのだ。
言うまでもないが、物価が「安定」しているだけでは「経済の健全な発展」は実現しない。現に今の日本経済がそうだ。
しかし、これまで日銀は「日銀の金融政策」と「雇用」との関係性を、ほぼ無視する時代が長く続いてきた。実際、白川方明・前日銀総裁の時代は、金融政策によって雇用を確保できるという考えがまったく無かったと言っていい。
それどころか、白川氏はデフレとは金融政策で解決できるものではないと公言し、デフレの原因は人口減少にあるとの持論を展開した人物だ。近年発刊された自著でも長々とそう論じている。
しかし、世界を見ればわかるとおり、人口減少は続いているのにデフレを脱却してい
る国は多い。白川氏の唱える「人口説」は、とうに否定されているものだ。
国の「借金」を否定的に捉えすぎている
政府が国を運営していくには、法人税や所得税、消費税など、企業や国民がおさめる税金で予算を組み立てる必要があるわけだが、実際は税収だけでは足りないことのほうが多い。というより、税収だけで年間の予算がすべて賄えることは現実には無いと言っていい。
したがって、税収で足りない分は国債を発行して補う、というのが原則的な考え方だ。国債は借金でもあるので、償還期限が来たら利息をつけて返すことになる。政府が発行した国債は民間金融機関が購入し、その民間金融機関から日銀が時価で買い上げるというのが原則だ。
日銀が民間金融機関から国債を購入する際に、その代金としてお札を発行する(またはその代わりに日銀当座預金を民間銀行が持って、いつでもお札をもらえるようにする)。日銀が10億円の国債を買い上げれば、日銀が新たに刷った10億円のお金が民間金融機関に渡り、これによりマネタリーベースが増加することになる。
借金をして事業を運営すると聞くと「企業が銀行から融資を受けて、設備投資などを行うのと似ているな」と感じる人も多いのではないだろうか。そのとおり、基本的には同じなのだ。
企業が融資を受けて(借金をして)事業を展開するのと、政府が国債を発行して(借金をして)国家を運営するのは、基本的には同じことなのである。もし、企業がいっさいの借金をしなくなれば、事業はやがて縮小していき、企業活動も縮小していくことになるだろう。
それとは逆に、メインバンクから融資を受けて設備投資を積極的に行い、経営の規模を拡大していくことは、企業の在り方として望ましいことだ。
政府が国債を発行するのも、考え方としてはまったく似ているのだが、なぜかこれを否定的に捉え「借金は悪いこと」「財政が破綻する」などとあおる人が、一般の人だけでなく、金融の専門家や日銀内部にも多いのだ。
経済学には「合成の誤謬(ごびゅう)」という言葉がある。
これは、ミクロ経済学とマクロ経済学の説明は、必ずしも一致しないという考え方から生まれている。ミクロ経済学は個人の家計や企業の経済行動を分析するが、マクロ経済学は雇用や所得、経済成長など国や世界の経済全体を分析する。
要するに、個人レベルで考えれば正しくても、それを全員が同じようにやったら正しい結果にはならないということだ。一般家庭の主婦や主夫が、日々倹約して家計を切り詰め「借金なんか絶対にしない!」との決意でやりくりするのは、ミクロの視点で見れば「正しい」と言っていいだろう。
しかし、それを一国の経済というマクロの世界に押しつけようとすると、途端に論理が破綻して話が行き詰まってしまう。
個人レベルで友人や消費者金融からお金を借りて、飲み歩いたりバッグを買ったりすることと、国が融資を受けて公共事業を行い、雇用を創出することとは、まったく次元が異なる話なのだ。
私はこういうとき、よく「半径1メートルの思考で世の中全体を見てはいけない」と言っている。