「帝京高校の野球は、それまで僕がやっていた野球の世界観を超越していた」。野球YouTuberのトクサン(36歳)は、帝京高校時代をそう振り返る。

帝京高校野球部では、ベンチ入りメンバーとして3年の夏、甲子園大会に出場。創価大学野球部ではキャプテンを務めた経歴を持つ。2016年から始めた野球YouTubeチャンネル「トクサンTV」は、登録者数64万人超を誇る。

入部初日「来るところを間違えた」と思った

中学3年のとき、のちに「トクサン」になる徳田正憲少年は、当時所属していたクラブチームの監督・長沼清和氏から「板橋まで散歩に行くぞ」と告げられた。徳田少年はすぐに理解できなかったが、板橋区にある帝京高校野球部のセレクション(選抜試験)を受けに行くという意味だった。

「帝京の校舎に足を踏み入れた瞬間、完全に圧倒されましたね。甲子園の盾とかトロフィーとかがいっぱい並んでいて。野球部のユニフォームを着た先輩とすれ違ったんですけど、体がめちゃくちゃデカくて。グラウンドのほうからカキーン、カキーンというバッティングの音が響いていました」

当時「帝京の野球部は身長1m75cm以下の者はとらない」という噂があったという。もともと小柄な徳田少年は、中学3年の時点で160cmあるかどうかというところだった。それでも、たったひとりでセレクションに臨むことになった。

「ウォーミングアップして、キャッチボールをして、ノックを受けてという感じでしたね。コーチから『君はどこを守れるんだ』って聞かれたので『セカンドとかショートです』ということで、ノックを受けていたんです。すると、僕の投球を見た前田監督が『彼はサイドから投げるね』って気づいたらしいんです」

「前田監督」とは、前田三男監督だ。帝京高校野球部を春・夏あわせて3度も全国制覇へと導き“名将”と称される。サイドぎみに投げる徳田少年のフォームが気になったらしい。ブルペンに入って、投げることになった。

その後、ベースランニングとバッティングでセレクションは終了した。足には自信があったが、バッティングでは満足のいく結果を残せなかった。ただ、やれるだけやったという実感はあった。本人は知らなかったが、着替えているあいだに前田監督から長沼監督に結果が伝えられていた。

「帰りの車で長沼監督から『3年間、補欠のままかも知れないぞ』と言われたんです。意外な言葉にびっくりしました。『帝京高校に入る資格があるんだ』って。『逆に考えれば、僕でもレギュラーになれる可能性があるってことか!』とポジティブにとらえたんです(笑)」

徳田少年は両親に相談をするどころか、まだ家にも着いていないのに「帝京高校に進学する」と返事したという。

ところが、入部してすぐに帝京高校野球部のレベルの高さを目の当たりにすることになる。

「初日に『あ、来るところを間違えた』って思いましたね(笑)。それまで僕がやっていた野球の世界観を、超越するような野球でした。場違い感というのでしょうか」

レギュラーを含めて12、13人が“モンスター”に見えたという。打球が違う。ガタイ(体格)も違う。

「僕は『3年間補欠でもいいので』と言って帝京高校に入ったんですが、すぐに『やばい』と。『本当に何もできないまま終わるかも……』と思いましたね」

▲帝京高校時代のトクサン (本人私物)

レギュラーに近づくため深夜まで続けた「特訓」

だが、徳田少年はあきらめなかった。毎日、帝京高校での練習を終えたあと、中学時代の恩師・長沼監督のもとへ出向き、深夜まで特訓を重ねたというのだ。

「地元の駅に着くのが夜22時半とか23時。そこから長沼監督とバッティング練習をするんです。どれくらい打ち込んだかな。たぶん500球から600球ぐらいですね。家に帰るのは0時をまわっていましたね。補欠の僕がそこまでやっていたんですから、レギュラーの人たちはさらに努力を重ねていたはずです」

中学時代までは右打席で打っていた徳田少年は、この「特訓」のなかで左打席でのバッティング練習を重ねた。脚力を活かすには一塁により近い左座席で打つべきだ、と長沼監督からアドバイスがあったのだった。

そうした努力もあって、高校1年生の秋、当時の3年生が抜けたタイミングで、徳田少年はベンチ入りを果たした。新チーム20人のひとりとして選ばれたのだ。「足が速いということで可能性を感じてくれたのでは」とトクサン。“しかし”と続ける。

「当時の帝京は『9人野球』なんです。ベンチの選手が使われる機会って、そうそうないんですよ。そもそもレギュラーで出ている人たちは、みんな足が速かったですしね」

チャンスはなかなか巡ってこなかった。

「ただ、ベンチ入りするとレギュラーと一緒にバッティング練習に参加させてもらったり、シートノックを受けたりできるので、監督やコーチの目に入りやすいというのはありましたね」

体が小さかったことから、高校生であるにも関わらず“リトルリーガー”と言われたこともあった。練習への遅刻が原因で監督に叱責され「帰れ」と言われて本当に家に帰ってしまったこともあった。このとき「前田監督に頭を下げなさい」と諭してくれたのも中学時代の恩師だった。

徳田少年は、恩師・長沼監督のもとへ通い続け、地道に努力を重ねた。

そして高校2年の夏。ひとつ上の先輩たちが抜けてようやく自分たちの代となった。ようやく自分たちが主軸になる番だ。そう思った矢先、事件が起きた。前田監督は「お前たちはもういらない」と言いだし、ひとつ下の後輩たちを中心にチームを作るようになったのだ――。