義母に捧げる夏のコンサート――川嶋あいさん

児童福祉によって支えられ、社会で活躍した人として僕が思い出すのは、川嶋あいさんだ。『明日への扉』などのヒット曲があるシンガーソングライターだ。

1986年、お母さんは1人で川嶋さんを出産したそうだ。複雑な事情があり、お父さんは行方不明になっていたという。産後、お母さんは体調を壊し、川嶋さんを育てることができなくなった。そのため川嶋さんは、乳児院という主に0~2歳までの子どもを育てる施設に預けられた。

その後、川嶋さんは主に3~18歳までの子どもたちを育てる児童養護施設へと移ることになった。虐待を受けて保護されたり、親を病気などで失ったりした子どもたちが集まって暮らす施設だ。そこで暮らしながら、お母さんの体調が戻って、一緒に暮らせるようになる日を待っていた。

▲児童養護施設には親を病気などで失ったりした子どもたちもいる イメージ:PIXTA

ところが、体調不良が続いていたお母さんは亡くなってしまう。

そうしたこともあり、川嶋さんは里親制度によって別の夫婦のもとに迎えられ、後に養子になった。

里親制度とは、施設などにいる身寄りのない子どもを養子として迎え入れて、代わりに育てる制度だ。

その家は土木建築の会社を経営していて、新しいお父さんもお母さんも温かな人だったそうだ。

食事の時間は、従業員の人たちも招いてにぎやかで、食後はオセロやトランプをして遊んだ。愛情をたっぷり注いでもらったのだろう。川嶋さんはそんな環境のなかでまっすぐに生きていくことができるようになっていく。

川嶋さんが歌と出会ったのは、養子になって間もない頃だった。

新しい家に来たことで、最初は不安があったのだろうか。「施設に帰りたい」と泣くことがあり、歌の体験レッスンをさせたところ、笑顔になって泣かなくなったそうだ。それからレッスンを本格的にはじめ、だんだんと歌の魅力に取りつかれた。歌うことはもちろん、家族がそれを喜んでくれるのもうれしかったという。

そんな歌の好きな少女が、歌手になることを夢見るまでに長い時間はかからなかった。

10歳のときにお父さんが亡くなるなど、養子に出た先の家庭でも困難はたくさんあったが、新しいお母さんは、彼女の歌手になろうとする目標を全力で応援してくれた。決して簡単な道ではないことはわかっていたはずだが、それを凌駕するほど娘に対する信頼があったのだろう。

川嶋さんは、そんなお母さんの声援から勇気をもらい、小学校時代から歌手活動をし、10代で本格的にデビュー。路上ライブなどを経て、10代の半ばで大ヒット曲を出し、誰もが知るミュージシャンへと成長した。

後年、川嶋さんは生い立ちを明らかにしたうえで、自分を育ててくれた両親の存在について印象に残る言葉を語っている。以下がそれだ。

母は私が16歳でデビューする直前に病気で亡くなってしまったのですが、ずっと、私が歌手になることを誰よりも応援してくれて、私だけを見つめ、あふれんばかりの愛情をかけて育ててくれました。父は私が10歳のときに病死しているので、母娘ふたりだけの家族になって、母のために歌手になりたい、母の夢をかなえたいという気持ちでがんばれた面があります

この言葉は、そばにいる人間の存在がどれだけ大きいかを物語っている。

▲歌の好きな少女が誰もが知るミュージシャンへと成長した イメージ:PIXTA

たとえ実の親と離れ離れになっても、身近にいる大人と愛情に基づいた信頼関係を築くことができれば、それは生涯にわたる心の支柱になる。

そのことを象徴するのが、川嶋さんが毎年夏に行なっているコンサートだ。

彼女を育ててくれたお母さんは、デビューの直前に他界した。川島あいさんは、そんなお母さんに感謝を込めて、命日である8月20日にコンサートを行なっている。

それだけお母さんの存在が大きいということなのだろう。

※本記事は、石井光太:著『格差と分断の社会地図 16歳からの〈日本のリアル〉』(日本実業出版社:刊)より一部を抜粋編集したものです。