東映、ヤクルトで活躍し、両リーグ200本塁打まで残り1本というところで惜しまれつつも引退した大杉勝男氏は、球史に残る名場面に数多く関わっている。そのうちのひとつである、球宴で満塁本塁打を打たれたのは、現在でも日本記録であるシーズン401奪三振を達成した名投手・江夏豊氏がプロ1年目のときだったという。

※本記事は、江夏豊:著『強打者』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

オールスターでの初対戦で満塁ホームラン

▲大杉勝男 出典:文藝春秋社『週刊文春』第9巻第24号(1967)[ウィキメディア・コモンズより]

私が新人の1967年当時、球宴は現在のような2試合制ではなく、選手の引退後の資金(年金)獲得のために3試合制であった。前年のリーグ優勝監督が、球宴の監督として指揮を執る。  

川上哲治監督(巨人)が「江夏、行ってくれ」。私はその球宴で3連投、大杉さんとの対戦は、第3戦の大阪球場だった。

高校を出たばかりの新人の私が、先輩たちを相手に内角の厳しいところを攻めるわけにはいかない。あとは、よく曲がらないカーブしか球種がない。外角を狙った球が、少し真ん中に入ったところを、ものの見事に「ガーン」。満塁本塁打だ。  

「月に向かって打ったんです」――MVPに選ばれた大杉さんがヒーローインタビューで発した言葉だった。プロ3年目で球宴初出場だった大杉さんは、全国デビューを果たした。  

大杉さんを指導したのは飯島滋弥打撃コーチ。現役時代(大映)の試合で1回満塁本塁打、7回3ラン・満塁本塁打を放ち、1イニング7打点・1試合11打点は、現在も日本記録である。

ユーモアに富んだ人で、夜間の打撃指導で大杉さんに「あの月に向かって打ちなさい」 と教えたそうだ。月に向かってアッパースイングをするというのではなく、そのくらいの「大きな気持ちで打撃に臨みなさい」という意味だったのだろう。

球宴の月夜に、満塁アーチを架けられた私の大杉さんに対するイメージはパワーヒッターだが、周囲の大杉評を聞くと「巧打者だ」が大勢を占めている。

そう言われてみると、自分のスイングを持っていた。投手に合わせてスイングに強弱をつけるのではなく、1、2の3で打ってくる人だった。

球史に残る猛抗議のきっかけとなった一発

1975年大杉さんは、内田順三さんと小田義人さんと2対1の交換トレードでヤクルトに移籍した。

1978年日本シリーズ、日本一4連覇を狙う上田利治・阪急と、球団創設29年目のリーグ初優勝を遂げた広岡達朗・ヤクルトが相まみえた。東京六大学野球で神宮球場が使用できなかったため、ヤクルトの主催試合は後楽園球場で行われた。 

3勝3敗で迎えた第7戦の6回裏、大杉さんは足立光宏さんから左翼ポール際に本塁打を放った。この判定を巡って上田監督が1時間19分に及ぶ猛抗議をするが、判定は覆らなかった。大杉さんは次の第4打席8回裏二死から「これならどうだ」とばかり、今度は山田久志君から文句なしの本塁打を放ち、ヤクルトは日本一の栄冠に浴した。

三塁ベースを回ったあと、飛行機のように両手を広げて満面の笑みでホームインした大杉さんの雄姿は、いまも私の脳裏にこびりついている。