日本で最初に女装をしたのは誰でしょう?

では「日本史上最初の女装」は誰でしょうか。戦前の日本人は誰でも知っていました。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)です。 これは後に贈られた名前で、最初はオウスと名乗っていました。

▲女装するヤマトタケル(月岡芳年:画) 出典:ウィキメディア・コモンズ

オウスは第12代景行(けいこう)天皇の皇子です。大変な乱暴者だったようで、『古事記』には兄をも殴り殺したとあります。恐れをなした天皇は「西の方に熊曾建(クマソタケル)兄弟という従わない奴らがいるから退治してこい!」と命じます。

そこで、オウスは叔母から衣装を譲り受け、剣を懐に入れて討伐に向かいます。クマソタケルの家(現在の熊本県から鹿児島県周辺)に着いたオウスは、警護が厳重なのを見て、

「童女(おとめ)の髪の如(ごと)その結はせる御髪を梳(けず)り垂り、その姨(おば)の御衣御裳(みそみも)を服し、既に童女の姿に成りて」
次田真幸『古事記(中)全訳注』講談社学術文庫/1980年

近づきます 。

要するに、少女の髪型にして叔母さんの衣装を着たわけですから、女装したのです。

そして、クマソタケルの家に侵入することに成功したオウスは、クマソタケル兄弟に「可愛いヤツ」と手招きされます。

その瞬間、まずは兄の胸を懐に忍ばせた剣で刺して殺し、続けざまに弟も剣で刺します。弟は刺されながら「こんな強い人は西では私たち兄弟以外はいません、これからはヤマトタケルとお名乗りください!」と言ったあと、絶命しました。

オカマ目線でヤマトタケルノミコトを読むと・・・

このヤマトタケルによるクマソタケル弟の殺害場面、オカマ目線だと、これでもかと艶なまめかしく読めます。『古事記』の原文です。

その弟(おと)建(たける)見(み) 畏(かしこ)みて逃げ出でき。すなはち追ひてその室の椅はしの本に至り、その背(そびら)の皮を取りて、剣を尻しりより刺し通したまひき。……その刀(たち)をな動かしたまひそ。僕(われ)白(も)言(う)すことあり……信(まこと)に然(しか)ならむ。西の方に吾(われ)二人を除(お)きて、建(たけ)く強き人無し。然るに大(おお)倭(やまとの)国(くに)に、吾二人に益(まさ)りて建き男(お)は坐しけり。ここをもちて吾御名を献らむ。今より以後は、倭(やまと)建(たけるの)御(み)子(こ)と称(たた)ふべし

訳すと「そのぶっ刺した剣を動かさないで! 自分たちより強い男は貴方だけです!! だからこれからはヤマトタケルと名乗ってください!!!」です。しかも剣が刺さっている場所は……オシリです。「剣を尻より刺し通したまひき」とあります。

同じ場面を『日本書紀』で確認しましょう。

川上梟帥、其童女の容姿に感(め)でて、手を携えくみて席(しきい)を同(ともにし)て、杯(さかずき)を挙げて酒を飲ませつつ戯(たわむ)れ弄(まさぐ)る。ときに更(よふけ)深人闌(うすら)ぎぬ
黒板勝美、國史大系編修会:編『新訂増補〈普及版〉國史大系 日本書紀 前篇』吉川弘文館/1973年

いろいろと事実関係に違いがあります。『日本書紀』では、クマソタケルは川上梟帥(カワカミノタケル)に、さらに兄弟ではなく一人になっています。やはり女装してますが、そのあとが注目です。

女装したヤマトタケルを見たカワカミノタケルは「可愛い!」と思って、手に手を取って寝室で一緒に寝て(「席を同て」)、お布団の中で二人は「戯れ弄まさぐ」っているのです。そして夜更けにカワカミノタケルが酔っ払ったところを、胸を刺して殺したとあります。

間違いなく、ヤっちゃってます。ということは、100パーセント、カワカミノタケルはヤマトタケルが男だとわかっていたはずです。

▲日本武尊と川上梟帥(月岡芳年:画) 出典:ウィキメディア・コモンズ

これをオカマ目線で解釈します。

『古事記』:ヤマトタケルにお尻をぶっ刺されながら「ア~ン、そのぶっ刺したモノを抜かないで~、あたしより強い男ってア・ナ・タ・だ・け。だから、これからはヤマトタケルと名乗ってちょうだい!」とヨガッたのがクマソタケル。

『日本書紀』:カワカミノタケルと女装したヤマトタケルは、お手々つないでお布団の中でイチャついて、ヤることはしっかりヤった夜更けにカワカミノタケルは殺される。

日本史上最初のオカマとして記録されているのも、ヤマトタケルです。

※本記事は、山口志穂:著『オカマの日本史』(ビジネス社:刊)より一部を抜粋編集したものです。