こんにちは、建築漫画家の芦藻彬と申します。

この世は無数の名建築であふれています。「ただ街を歩く」、これだけでもう立派な娯楽になってしまうくらいです。建築はさまざまな要求や制約が複雑に織り重なってできており、形や仕上げはその建築の成り立ちや用途、さらには街の歴史といった事柄を実に雄弁に語ります。

しかし、なかには常軌を逸した精密さを持ち、あらゆる細部に至るまでデザインされた、通常の建築の枠を超えた作品があります。かつての大聖堂やモスクのような、国の粋を集めたプロジェクトならいざ知らず、現代建築でそんなものを見せつけられた日には、あまりの仕事量に心を奪われるか、成金趣味と目を背けるかのどちらかではないでしょうか。

もちろん、これから取り上げる作品は前者です。

そのあまりの情報量に目が眩むと同時に、次々と現れる豊かで魅力的な造形に目を奪われ、気づけば数時間、同じ空間で過ごしてしまう。

そんな格別な空間をもつ建築に出会えたなら、その経験は間違いなく人生の宝物となるでしょう。

ここでは、建築家が何かの境地に至ってしまったかのような「覚醒」したデザインの建築を取り上げ、その謎とデザインの妙を紐解いていきます。

ヴェネツィアが産んだ巨匠、カルロ・スカルパ 

皆さんは、カルロ・スカルパというイタリアの建築家をご存知でしょうか。

▲カルロ・スカルパ イラスト:芦藻彬
1906年、ヴェネツィアに生を受ける。日本好きとしても知られ、たびたび来日するなかで日本の建築や文化に関心を示していた。1978年、仙台にて急逝。
▲『SCISSIONE/分裂』芦藻彬

ヴェネツィアで生まれたスカルパは、本島にある建築大学で長年教鞭をとり、生涯の多くを水の都で過ごしました。アカデミアに身を置くかたわら、ムラーノ島の工房でヴェネツィアン・グラスの職人としても作品を残しており、建築家としては異色のキャリアをもっています。

工房で熟練した職人技術を学び始めた1927年当時、世界の建築界ではモダニズムが影響力をつけ始めていました。

現代美術に多大な影響を与えた美術学校「バウハウス(※1)」が「モダン」なデザインの基礎を築いたり(創設者であるヴァルター・グロピウス(※2)によって建てられた「デッサウの校舎」は、有名なモダニズム建築の一つです)、ル・コルビュジエが自らの事務所を構え、実作・論考共にモダニズムを精力的に発表したりしていた頃、スカルパは伝統的な職人技術を学ぶ方向へと舵を切ったのです。

そんなスカルパは、非常に緻密なディテール(細部)デザインに定評があり、あらゆる隅や接合部、小さな金具に至るまで、まるで独立した作品であるかのようにデザインするのです。

▲スカルパ建築漫画より イラスト:芦藻彬

驚くべきは、その個々のデザインによる総体が、確かに一つの「空間」としてまとめ上げられ、統一された秩序を放っていることです。

実際、スカルパは検討の際に膨大なスケッチを描き、余白の隅々にまでディテールのデザインを書き込みます。産み出されては切り捨てられるデザインのなかで、生き残った数少ない選りすぐりのものが組み合わせられるのです。注意深く観察すれば、どのデザインも構成のなかで有機的な関係を持ち、お互いに響き合うことで魅力的な空間を支えていることがわかります。

それはもう、圧巻の一言でした。

スカルパに魅せられて-ヴェネツィアでの漫画描き暮らし- 

私はこんなにも美しい、人間の仕事を見たことがありませんでした。いや、それまでのあらゆる衝撃を、スカルパの空間が塗り替えていったとも言えます。

大学3年生のとき、レクチャーのなかで見たスカルパの作品「ブリオン家の墓地」の放つオーラ、他の建築とは決定的に異なるそれに、目が釘付けになったことを覚えています。

 

そのときから、私はカルロ・スカルパの虜となり、彼(の作品)を追っかけて、かつて学長を務めていたというヴェネツィア建築大学に留学もしました。

スカルパの育った水の都で暮らした1年間は、街とともに彼の建築への理解がどんどん深まっていく、まさに夢のような時間でした。ヴェネツィアという古い伝統の残る街、かつ新しいものが次々と入ってくる土地(かつては港、現在は観光地)だからこそ、スカルパという稀代の建築家が生まれたのだと肌で感じました。

▲「SCISSIONE/分裂」より イラスト:芦藻彬

例えば、スカルパ作品にたびたび現れる階段状のかたちは、水路が街を縫うヴェネツィアのあちこちで目にすることができます。潮の満ち引きにより、街と海の境界が刻々と変化するという特殊な環境が、彼の詩的感覚を養ったのかも……? なんてことも、つい妄想してしまいます。

※好きすぎて、滞在中に足繁く通うなかで感じた空間、見つけたさまざまなディテールを漫画の形で記録しました。

拙作漫画『バベルの設計士』は、連載原稿の大半をヴェネツィアで執筆しているのですが、その原因はスカルパへのとめどない愛なのでした。もちろん、ヴェネツィアにもしっかり惚れ込んだので、風景や生活を漫画にしています。

▲イラスト:芦藻彬

例えば、毎年10月に街を襲う「アックア・アルタ」。潮が満ち、街の1階部分が海に沈むとき、この街は異世界への入り口にな……るかも。

※ヴェネツィアの風景や日常に興味のある方は、アート・コミュニケーションプラットフォーム「ArtSticker」に漫画を掲載しています。