魔法使いになろうとした細川政元の男色
これ以降も、室町将軍の男色エピソードはまだまだあるのですが、ここからは事実上の戦国時代の幕を開けた男、細川政元に移ります。
政元は勝元の子として生まれ、9代将軍義尚、10代将軍義材(よしき、後の義稙〈よしたね〉)、11代将軍義澄(よしずみ)の下で管領を務めました。政元は1493年、将軍義材を追い出すクーデターを起こし、義澄を傀儡の将軍にして実権を握り「半将軍」と呼ばれます。明応の政変です。
そんな政元がハマっているのが空飛ぶ魔法でして、『細川両家記』には「常に魔法を行ひて」とあります、これを飯綱(いづな)の法と言います。
政元の空飛ぶ魔法の修行のために、周囲が困ったことが2つありました。
1つめは、『細川両家記』に「四十の員(かず)に及ぶまで夫婦の語らひ無き間、御子一人もましまさず」とあり、『足利治乱記』には「政元嘗(かつ)て飯綱ノ法を崇信し、而(しか)して少童を押愛す」とありますから、40歳になっても妻帯せずに子どもを作らないわけです、そのうえで少年との男色はヤっています。
男色は良いのです。これまでも見たように、日本では当たり前のことですから。しかし、子どもを作らないのは本当に困ります。細川宗家のことを京兆家(けいちょうけ)と言うのですが、世継ぎがいないと京兆家が存続できません。
そこで、公家の近衛家から細川澄之、阿波讃州家(徳島県)から細川澄元、野州家から細川高国を養子に迎えます。下野守の子孫なので野州家なのですが、要するに阿波讃州家とともに分家です。
困ったことの2つめは、政元は半将軍のくせに職務放棄して勝手に修行に行くのです。それで、将軍の義澄が直々に「帰って来てください!」と説得しに行くこともありました。
こうしたことが続くのですから、騒動が起きないわけがありません。薬師寺元一という男は、阿波の澄元を養子に迎えるために尽力したのですが、その元一が政元を隠居させて澄元に家督を継がせようと1504年、淀城(大阪府)に立て籠ります。しかし、元一の謀叛は失敗し、自刃に追い込まれるのですが、その元一の辞世の句がこちらです。
冥土(めいど)には 能(よ)きわかしゅの ありければ 思ひ立ちぬる 旅衣かな
この句の肝は「わかしゅ」です。「我が主」と読めば「あの世には政元様よりも良い主君(我が主)がいるから、今日からそこへ旅立ちます」という意味で、政元への皮肉の句となります。しかし「若衆」と読むこともでき、若衆とは「男色における受け身の男」のことですから、それだと「あの世には良い若衆がいますから、政元様もどうぞ!」となります。
つまり、これは政元への呪いの句でもあるのです。元一の「元」は政元からの偏諱とも考えられますから、2人は男色関係にあったのかも知れません。
その後、澄元と澄之の養子2人が対立しますが、このような混乱の最中に、政元は「奥州に修行したい!」と言い出す始末。そこで澄之派の家臣たちは、1507年6月、修行のために入浴中だった政元を暗殺しました。
政元の一生を見ると、男色家によるクーデターで戦国時代に突入し、その男色家が子どもを作らず、さらに度重なる職務放棄をしたせいで、さらなる社会の混乱を招いたと言えるでしょう。
※本記事は、山口志穂:著『オカマの日本史』(ビジネス社:刊)より一部を抜粋編集したものです。