ファンの期待もむなしく、2021シーズンは5位でシーズンを終えた中日ドラゴンズ。しかも借金16、リーグ優勝を果たした東京ヤクルトスワローズから18.5ゲーム差も突き放されてのBクラス、である。はたして、その原因はどこにあるのか? “竜のエース”として落合博満監督政権下の黄金時代を支え、現在はCBC野球解説者を務める吉見一起氏が、チームの再建に向けて緊急提言!  エースナンバーを背負った男から大野雄大投手へ愛あるメッセージ。

※本記事は、吉見一起:著『中日ドラゴンズ復活論 -竜のエースを背負った男からの提言-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

(写真:中日新聞社)

エースのオーラを身にまとっていた川上憲伸さん

今シーズンのチームを分析するにあたり、まずは僕が中日ドラゴンズに入団した際のエピソードと、いかに当時の中日ドラゴンズの投手陣がすごかったか、そして受け継がれる“竜のエースの系譜”、さらには僕が考える「エース論」で綴っていきたいと思います。

幸いにも「ドラフト1位」の目標を達成し、プロの扉を叩いたとはいえ、やはりというべきでしょう。僕の想像どおり、中日ドラゴンズ投手陣のレベルは高すぎました。当時(2005年)は、大学・社会人ドラフトと高校生ドラフトが分離。中日から「吉見は希望枠で」という条件を提示されました。

ただ、実は僕が最初は拒否したんです。それは自分のトヨタ自動車への恩返しや、自身のコンディションのことが頭をよぎったわけではありません。本来は飛びついて当然でしょうが、当時の中日ドラゴンズの投手陣は、質量ともに12球団ナンバーワンといっていい面々でした。

「えらいとこに来てしまった……」

2006年1月の合同自主トレに参加した僕が抱いた正直な感想です。エースの川上憲伸さんを筆頭に、中田賢一さん、朝倉健太さん、すでに大ベテランだった山本昌さん、救援陣は岩瀬仁紀さんを筆頭に、平井正史さん、久本祐一さん、落合英二さん、岡本真也さん、高橋聡文さん……今振り返ってもとんでもない豪華な顔ぶれです。実績はいうまでもなく、技術的にも優れ、150キロ超えの速球を投げる投手が名を連ねていました。

「3年で終わりかな。なんでドラゴンズにしてしまったのか」

これが大げさでもなんでもなく、当時の僕の偽らざる本音です。不安だらけでプロのユニホームに袖を通し、その不安どおりに中日ドラゴンズ投手陣の層の厚さを目の当たりにし、かすかな希望の光すら見出せないまま、2軍の読谷(よみたん)キャンプで練習に励んだ日々を思い出します。

僕が中日ドラゴンズに入団した際のエースといえば、もちろん川上憲伸さんです。明治大学時代には、同い年で慶應義塾大学の高橋由伸さん(のちに読売ジャイアンツに入団)と東京六大学野球の舞台でしのぎを削り、星野仙一政権時代の1997年にドラフト1位でチームに入団。「即戦力」という期待に応えてルーキーイヤーから14勝を挙げ、高橋さんらとの超ハイレベルな争いを制してセ・リーグ新人王に輝きました。

その後はケガもありましたが、2004年には17勝を挙げ最多勝を獲得します。強烈なカットボールを武器に、落合博満政権下ではエースの座を不動のものとし、僕がルーキーイヤーだった2006年にも17勝で再び最多勝を獲得。2009年には大リーグの名門であるアトランタ・ブレーブスに移籍を果たすなど、まさしく投手王国・中日ドラゴンズの象徴的な右腕です。

とにかく、川上さんのまとっていたオーラというか立ち振る舞いは、ほかの先輩方とは全然違いました。言葉にするのが難しいのですが、同じ球速のボールを投げる投手はほかにもいるのですが「何か」が違うのです。“エース”という自負がそうさせるのか。自信満々で投げている感じなんです。

「きっと投げたら抑えるんだろうな。エースというのは、こういう感覚を抱かせるものなんだろうな」

僕が川上さんを観察しながら抱いた感想です。おそらく僕だけではなく、投手陣の誰もがそう感じていたのだと思います。お世辞でもなんでもなく、川上さん以上の人は見たことがありません。

川上さんがメジャーから中日に復帰後、右肩の故障で思うように投げられない姿を見ても、最初に抱いた思いは引退するまでまったく変わりませんでした。

▲晴れの入団会見でも吉見氏の頭の中は不安でいっぱいだったという 写真:中日新聞社

なぜかほっとけない男、それが大野雄大 

時は流れて2011年。僕の目にこれは「エグい」と感じさせる球を投げる男がいました。

2010年のドラフト1位指名で佛教大学から中日ドラゴンズに入団してきた大野雄大です。左肩に違和感があり故障を抱えたままのプロ入りは、右肘に違和感があった僕と同じ境遇。しかも、同じ京都出身ということで気になる存在ではありました。

それ以上に度肝を抜かれたのは、故障を抱えているとはいえ、その潜在能力の高さです。キャッチボールで投げるときの、その地肩には目を見張るものがありました。ただ、とにかく制球が悪くてどこに球が行くのかわからなかったのです。

この年は、僕とローテの軸としてチームを支えてきたチェン・ウェインが、オフにメジャー挑戦のために退団することが内定していました。

「こりゃ、将来のチェンになるだろうな」

僕が大野に抱いた印象です。

ただ、当時の大野は良く言えばムードメーカーですが、悪く言えばお調子者。糸の切れた凧のようにハメを外すとどこまでも放浪してしまう。投手会が開かれたら朝まで飲んだくれて……というのはザラでした。

「この選手は人生を損するんじゃないかな」

とてつもない能力を秘めながらも、大野の幼さの抜けないメンタリティーを僕は危惧していました。でも、なぜかほっとけない不思議な魅力も持っていたのです。

当時の落合監督率いる中日ドラゴンズは、いわば“常勝軍団”。目標のないBクラスなど考えられない状況です。勝てないのでは、なんのために野球をしているのかわかりません。

僕には、チェンという大きな柱を失い、チームが弱くなっていくのは受け入れられないことでした。そこで僕が期待したのが大野だったのです。

「オレと一緒の空気を吸うか?」

大野がルーキーイヤーを終えた2011年オフ。僕がいつも自主トレを行う福岡の地に、初めて彼を連れていきました。実際、足踏みというか伸び悩んでいたのも事実です。のちの2012年は4勝、13年にようやく二桁の10勝を挙げて、そこから3年連続二桁勝利をマーク。

ようやく大器の片鱗を見せ始めたとはいえ、大野には「貯金のできない投手」というレッテルが貼られていたのも事実ですし「10勝10敗の投手」とまで揶揄されていました。僕は大野に口を酸っぱくして言いました。

「オレがお前のボールを持っていたら15勝5敗やぞ」

僕は本気でこの言葉を投げかけるほど、大野の実力を認めていました。ただ、このとき彼の心に響いていたのかはわかりません。貯金のつくれない投手の典型的な特徴は、野球の流れがわからないことです。この場面で「なんでそれ?」というポカをする。勝てない投手の典型ですよね。厳しい言い方をすれば「野球偏差値」が低い。

ただ、やっていることは勝てない投手の典型なのに、それでも二桁の10勝を挙げるというのは、裏を返せば大野のポテンシャルの高さの証明でもあるんです。