「愛想笑い」していませんか? 世の中も他人も、そして自分の心だって自分の思い通りにはなりません。いい意味で肩の力を抜いて、期待し過ぎない、頑張り過ぎないことが大事なのです。精神科医の藤野智哉氏は「つらかったら逃げてもいい」と思えることで、心がふっと軽くなるはずだとアドバイスをしています。
本記事は、藤野智哉:著『自分を幸せにする「いい加減」の処方せん』(ワニブックス:刊)より一部抜粋編集したものです。
「愛想笑い」は偽りの笑い
人間の脳には、つらい記憶を補正するクセがあります。
アメリカの学者が、面白い実験を行いました。
学生のグループに単調でつまらない作業をさせ、そのあとでこれから同じ作業をする人に「面白かった」と伝えさせるのです。その報酬として1ドルか20ドルを渡し、最後に作業をどう感じたか聞いたところ、興味深い結果となりました。
20ドルもらったグループは、報酬のために嘘をついた、という正当化ができます。その一方、1ドルしかもらっていないグループは、たった1ドルのために嘘をついた自分を認めることができず、つまらなかったはずの作業を「面白かった」と答えたのです
これを「認知不協和の解消」といい、自身の認知に対する矛盾を解消しようとし、合理化してしまうんです。
ブラック企業でつらい環境で仕事をしている人ほど、自分の仕事のやりがいを探そうとする現象もこれにあたります。つらい環境に置かれたとき「もっとつらい環境はある」「自身はそんなにつらくない」というように、合理化してしまう人が多いんです。
「つらくても逃げちゃいけない」方向ではなく、「つらかったら逃げてもいい」方向に解消できるといいと思うんです。
そもそも世の中には、他人に対して理不尽を強いる人があまりに多いことが気になります。
「愛想笑い」という、私があまり得意ではない言葉もあります。苦手な相手や、傲慢な上司が偉そうな物言いをして、同意を求めてきたときに浮かべてしまう、なんともいえない表情のことです。
嫌な思いをした人が、無理して笑わなきゃいけない環境っておかしいですよね。そんなのが愛想がいいってことなら、愛想笑いなんて一生できないままでいいと思います。
ちなみに、愛想笑いを英語にするとFake Smileだそうです。愛想笑いというと、コミュニケーションの一環のようにも思えますが、偽りの笑いと知ったら、なんで自分がそんなことしなくちゃいけないんだって思いませんか?
もともと私は体が弱くて、激しい運動は禁止されていました。小学校4年生で運動制限が緩和され、ようやくプールに入れるようになったんですが、熱心な担任教師は、私を泳げるようにしたかったんだと思います。
全体とは別に個人練習させられた挙句、カナヅチだと言っても「できなくてもいいから、みんなと同じように受けよう」と私の手を取ってプールに。そのときの私は、きっと愛想笑いを浮かべていたんだと思います。
その結果どうなったか。同級生の見てるなか、プールの真ん中で惨めに溺れたんです。スタート地点も能力も違うのだから、みんなが同じである必要はないと思いませんか。あのとき、はっきり「嫌だ」と言えばよかったと、少なからず後悔しています。