歴史好きでなくとも、ただならぬ関係を妄想してしまうのが織田信長と小姓の森蘭丸。しかし、資料を紐解いてみても、蘭丸の優秀さは記載されていても、実際に男色の関係であったことを裏付ける記載はないそう。ただ、信長に男色の嗜好がなかったかというと、そうではないらしく……。自身を「オカマ」だと公言する山口志穂氏が、半ば常識となった歴史の新しい側面に切り込みます。

実はヤッてない説もある織田信長と森蘭丸

1560年、桶狭間において今川義元を奇襲で破ったのが織田信長です。

▲信長死後に宣教師によって描かれたとされる肖像画を写真撮影したもの(三宝寺所蔵) 出典:ウィキメディア・コモンズ

信長の男色と言えば「森蘭丸」、森蘭丸と言えば「小姓」、このイメージをお持ちの方は多いでしょう。では、なぜ小姓が戦国時代になると多く出てくるのでしょうか?

それは、戦場での長期滞在に女性を連れて行くことはできないからであり、常に殿様の身近に付き従うのが小姓たちだったからです。

小姓を表すときに「御物(ごもつ)」という言葉が使われます。御物とは宝物のことです。つまり、小姓たちは殿様にとっての大切な宝物だったわけです。

さらに「御座を直す」や「伽(とぎ)」という言葉もありまして、これが出てくれば「◯◯クンは殿様のお手付きになった=ヤっちゃった」という意味になります。

小姓は常に殿様の身近にいますし、お布団の中でも、単にセックスするだけではなく、殿様からマンツーマンの英才教育を受けることができます。ですから、小姓は必然的に殿様の優秀な秘書になるわけです。

そこで蘭丸に戻りますが、蘭丸には、信長に対する多くの機転を利かせたエピソードや気遣いエピソードはあります。しかし、残念ながら蘭丸の容姿に関わることであるとか、蘭丸が信長と男色をしたとは、太田牛一の『信長公記』や小瀬甫庵(おぜほあん)の『信長記』等にはありません。

さらに、森蘭丸という名前に関しても「森乱」となっているのです。ただし、史料にはなくとも、小姓であったことは事実であり、小姓が「殿様の御物」であることを考えれば、容姿に関しては美しかったであろうとは思います。

そういうわけで、蘭丸(乱)が優秀な秘書であったことは間違いないですし、容姿に関しても美少年であったことも間違いないと言ってよいと思いますが、信長との男色に関しては、記録がないので「わからない」としか言えないとなります。

実は、信長自身について『信長公記』を読んでも、男色にまつわる記録はないのです。男色に対して中世日本では偏見などありませんでしたし、『信長公記』には、その他の人物の男色については書いてあります。

例えば、信長の弟の織田信行については、

「勘十郎殿〔信行〕御若衆に津々木蔵人とてこれあり」[桑田忠親校注『信長公記(全)』人物往来社/1965年]

とありますし、15代将軍足利義昭に信長が出した『十七ヶ条の意見書』には、

「御宿直に召し寄せられ候若衆に、御扶持(ごふち)を加へられたく思食され候はば、当座当座、何なりとも御座あるべき事に候ところ、或は御代官職仰せ付けられ、或は非分の公事を申しつかせられ候事、天下の褒貶(ほうへん)、沙汰(さた)の限りに候事」

とありまして、要約すれば「義昭は男色で依怙贔屓するな!」と信長が言っているのです。とにかく、牛一は男色を隠していません。ですから、牛一が信長の男色があったとして、隠す理由もないと思うべきでしょう。

では、信長は男色をしていなかったのか? となると、そんなことはありません。

▲信長と蘭丸(月岡芳年画) 出典:ウィキメディア・コモンズ