徳川家康が男色を必要とした「徳川四天王」は誰?
徳川家康は、言わずと知れた最終的な天下人ですが、家康は主従が強固な絆で結ばれた三河武士団を抱えていましたから、基本的には男色を必要としていませんでした。
そんな三河武士団を抱える家康ですが、男色について書かかれているのが『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』です。
井伊万千代と云ふは遠州先方衆侍の子なるが、万千代、近年家康の御座を直す
井伊万千代とは、徳川四天王の1人で、徳川幕府の譜代大名筆頭として多くの大老を輩出した彦根藩(滋賀県)初代藩主、井伊直政のことです。そして「御座を直す」とは「ヤっちゃった」という意味ですから、家康と直政は男色関係にありました。では、基本的には男色を必要としない家康が、なぜ井伊直政とは男色をしているのでしょうか?
井伊直政は1561年、今川家の家臣の井伊直親の嫡男として生まれましたが、直親は翌年、桶狭間で討たれた今川義元の跡を継いでいた今川氏真に殺害されます。このときに井伊家の当主となったとされるのが、2017年の大河ドラマ『おんな城主直虎』の井伊直虎です。その後、紆余曲折がありながら、直政15歳のときに家康に小姓として仕え、万千代と名乗るようになります。
このように直政の井伊家は、生粋な徳川譜代の家臣ではなく、今川家から徳川家に主家を替えた外様だったわけです。つまり、直政が生粋な徳川譜代の家臣ではなかったからこそ、家康も直政との男色を必要としたとなるのです。
そんな外様の直政が、家康との男色によって主従の絆を深め、さらにマンツーマンの英才教育を受けたことによって、家康親衛隊として本領発揮したのが、直政の初陣となった1576年の武田勝頼との遠州芝原の合戦のときです。
『井伊年譜』や『井伊家伝記』によると、このとき、家康が休息していると、夜中に敵の間諜(かんちょう)を直政が見つけ、それを討ち取ったとあります。つまり、家康の命を救ったわけです。これによって直政は、一気に300石から3,000石に大幅加増されました。
さらに関ヶ原の戦いでは、東軍勝利が確定したあとに、戦場に取り残された島津軍が、あえて家康本陣に正面突破して退却するという、いわゆる「島津の退き口」において、直政は島津軍から銃撃を受けています。
『徳川実記』によると、家康は、直政の受けた鉄砲傷に自ら薬を塗ってあげたそうです。しかもこのとき、息子の松平忠吉も負傷していたのですが、家康は忠吉には薬を塗ってはいません。
このエピソードだけでも家康と直政の関係が知れるのですが、直政が島津軍からの銃撃を受けるということは、直政が一軍の将でありながら、敵軍間近で戦っていたということです。
関ヶ原の後、石田三成の旧領の佐和山は直政に与えられましたが、このことからも、家康がいかに直政を信頼していたかがわかります。その2年後の1602年、直政は関ヶ原の古傷が要因となって亡くなりました。
こうしたことがあってこそ、本来は外様だった直政が「徳川四天王」と呼ばれるのであり、それは家康の男色による寵愛のみでは決してありません。そして井伊家が、徳川の譜代の中でも突出して石高が高く、幕府大老を多く輩出するまでなる素地は、直政による「命懸けの家康への愛」からだったと言えるでしょう。
※本記事は、山口志穂:著『オカマの日本史』(ビジネス社:刊)より一部を抜粋編集したものです。