織田信長と並び称されることの多い豊臣秀吉と徳川家康。日本の歴史が“男色の歴史”であるとするなら、この2人の男色との関わりはどういったものだったのでしょうか? 自ら「オカマ」と名乗る山口志穂氏が語る日本史からは、歴史の新しい側面が見えてくる!

男色趣味のない秀吉が美少年に耳打ちした理由

信長が「室町幕府六代将軍足利義教を模倣した人である」と言われたのが、明石散人先生の『二人の天魔王』でした。

そんな信長が唯一、義教に勝っていたとすれば、信長は「自らの意思を引き継ぐ後継者に恵まれていた」ということでしょう。その後継者こそが、羽柴秀吉(後に氏を賜って、豊臣秀吉)でした。

▲豊臣秀吉肖像、一部(高台寺所蔵) 出典:ウィキメディア・コモンズ

秀吉に関しては、男色エピソードはありません。1590年の小田原攻めのときも、本来ならば女性を連れてくることはない戦場に、側室の淀殿などを呼び寄せたことは有名ですが、これも秀吉に男色の嗜みがなかった証拠でしょう。

しかし、そんな秀吉も「御物」としての美少年の小姓は置いています。『老人雑話』には、秀吉のこんなエピソードがあります。

羽柴〔池田〕長吉は太閤〔秀吉〕の小姓、比類無き美少年也。太閤、或時、人なき所にて近く召す。日頃男色を好み給はぬに故に、人皆奇特の思ひをなす。太閤問ひ給ふは、「汝が姉か妹ありや」と。長吉顔色好き故也[(須永朝彦『美少年日本史』]

これを訳せば「池田長吉は秀吉の小姓で、比べる物もないほどの美少年でした。秀吉はあるとき、人目のないところで長吉を近くに来させて、なにやら耳打ちします。周囲は『日頃は男色など嗜みのない秀吉様なのに……』と不思議がっていたのですが、秀吉が長吉に聞いたのは『お前に姉か妹はいる?』ということだった。それは結局、長吉が美少年だったからです」ということで、このエピソードでもわかるように、秀吉はどこまでも女好きだったようです。

秀吉の養子になって関白となったのが豊臣秀次です。その秀次の小姓が「戦国三大美少年」の1人として有名な不破万作です。

『東国太平記』には、万作について、

「生年十七歳、其比日本に隠れなき美少人」

とありますから、絶世の美少年なので、多くの男たちがストーカーするほどのアイドル的存在でした。

しかし、『犬つれづれ』には、

「関白殿つねならず愛し給ふ」

とありますから、秀次の寵愛も半端なかったので、誰も手を出すことができないわけです。

そこで、万作が策を練って、男たちの夢を叶えてあげる、つまりヤってあげるのです。『犬つれづれ』には「万作の乗った輿(こし)と相手の輿とをくっ付けて、そこで会ってヤってあげた」というようなエピソードがありますし、『新著聞集』には「狩りの最中に『お腹痛い!』と秀次を騙して、その隙に男と会ってヤってあげた」といったようなエピソードがあります。

そんな万作は、最終的には1595年の秀次切腹事件の折りに、わずか17歳で秀次と運命を共にしました。

▲不破伴作 出典:ウィキメディア・コモンズ

そんな悲劇の美少年の万作は、なぜか歌舞伎の世界では、もう1人の戦国三大美少年の名古屋山三郎が美少年なのに対して、悪役にされています。これも結局は、万作が相手の願いを叶えてあげることが美談なのではなく「若衆の万作による、念者の秀次に対する裏切り」だと、世間からは捉えられていたからだと言えるでしょう。衆道の世界では、あくまでも一対一の関係でないと許されないのですから。

▲四代目市村家橘演不破伴作(右)と二代目澤村訥升演名古屋小山三(四代目歌川豊国筆) 出典:ウィキメディア・コモンズ