「蘇生の気を示す」といわれた鱈の活力
脱水症状気味の青白い顔に、まだ髪の毛が突っ立った状態でフラフラと朝食に行く。すると連中、もう朝酒を飲りながら、昨夜喰い残したじゃっぱ汁で気炎を上げている。
それを見て我が輩はギョッとした。「どうすか。よがったらここに来て、またゆんべの続きやっぺす」と1人が言うと、他の2人も「んだんだ。やっぺす」と誘う。我が輩は昨夜の便所通いの一件をリアルに語ると、皆は「そんじゃ脂肪(あぶらっこ)にあたったんすな。喰い慣れねえどすぐに脂肪にあたるべもんな。そういえばなんべい(何杯)もガッついていたすもんな、きっとあたったんだっぺ。だどもでえじょうぶ(大丈夫)かよ」と最後はちょっぴり心配してくれた。
そのときのじゃっぱ汁の鱈は格別巨大だったので、おそらく普段のものよりもずっと肝の量も多く、したがって、脂肪でトロントロンの鍋に仕上っていたのだろう。それにしても我が輩のような強靱な体の持ち主が、脂肪(あぶらっこ)にあたって苦しむほどであるから驚いたものだ。
昔から鱈は非常に活力の強い魚として知られ、死に瀕しても側で高い音をたてたり、何かの刺激を与えると蘇生の気を示すといわれて、武家に珍重されてきた魚である。そのため武家や由緒ある町家筋では、わざわざ北国に使者を立てて鱈を正月の糧に求めたとのことで
「比良の雪生鱈来べきあしたかな」
とか
「加賀蓑を鱈に着せたる山路かな」
といった味な句もつくられた。その強靱さは、きっとあの巨大な肝が活力源とみなされていたのだろう。
ドンコは丸ごと入った味噌鍋がいちばん!
鱈の仲間に通称「ドンコ」という魚がいる。塩釡や石巻、小名浜の市場に多く水揚げされる魚で、正式にはエゾイソアイナメと呼ぶそうだ。
体型はといえば、頭と胴体だけでできていると言ってもいいような不格好な魚で、腹部が異常に大きく、そこに巨大な肝臓が納まっている。深い海底にいるため、捕獲時の気圧の変化で目と舌が飛び出すことになり、一層グロテスクさを増してくるのである。
ところが、これを食べてみると形に似合わず誠に美味で、特に肝のうまさは格別。甘さをともなった特有のコク味は上質な脂肪のなせるわざで、初めて食べた人などは思わず我が舌を疑うほどなのである。
この魚の食べ方は、たった1つしかないと言っても間違いない。それは薄味の味噌煮にすることだ。福島県の小名浜港に行ったとき、町の魚屋さんが「焼きどんこ」などというものを売っていたので、買って食べてみたところ、煮たものの比ではなく、肝が小さく縮まってしまい、まったく面白くないばかりか、味もなくなっていたのである。
しかし、味噌鍋にすると肝臓のうま味が味噌の風味によって1段も2段も引き立てられ、コッテリとした肝が味わえるという次第。だから、この魚を店頭で見つけて買うときには、必ず腹が巨大に膨らんだものを求めるべきで、大きい分だけ、それは肝であり、料理は美味になる。
盛岡市の小料理屋に入ったときのこと。店内の小さな黒板に「本日の料理」とあり、そこに「ドンコ煮」というのがあったので、おおっと思わず手を叩き、万歳などして頼んだのであったが、出てきたドンコ煮を見て愕然としてしまった。
腹がペシャンコに引っ込んでいるうえに、下ごしらえのときに臓物を取り去ってしまっているので、これではドンコの値打ちはまったくなくなってしまう。
とにかくドンコは、どこにも手をつけず、包丁も入れず、あくまでも一匹丸ごとをそのままの姿で煮つけにしてほしいものだ。肝を取り去ったドンコなど気の抜けたビールであって、金を払って食べるような馬鹿なまねをしてはならず、かといって、金をくれるから食べてくれと言われても、沽券にかかわるから口にしてはならないほどのものである。
※本記事は、小泉武夫:著『肝を喰う』(東京堂出版:刊)より一部を抜粋編集したものです。