「気合が足りない!」とボコボコに…
せっかくなので、躰道という武道を紹介させてもらいたい。
躰道は戦後に生まれた。もともとは玄制流空手を作られた沖縄県出身の空手家、祝嶺正献(しゅくみねせいけん)先生という方が作った新しい武道で、昭和40年くらいにできた。歴史としてはそんなに長くはないが、空手にバク転、バク宙などのアクロバティックな動きを取り入れ、見た目が華やかなのが特徴だ。
歌手の故・尾崎豊さんも幼少期に躰道をやっていて、今でも躰道をWikipediaで調べると、躰道に関連する有名人で尾崎豊さんが出てくる。そこに横並びでTAIGAの名前も出てくることが俺の自慢のひとつだ。
躰道部の顧問の先生の家に下宿をさせてもらい、学校に通うことになった。だが、誤算があった。軽い気持ちで入った部活は、朝練から昼練、夜練まである、とにかく厳しい部活だったのだ。
決まり事も多かった。今でも忘れらないのが食事の時間だ。ご飯を食べるときは寮生みんなで食べるのだが、まず先生が箸をつけ、次に3年生が箸をつける。次に2年生、ようやく最後に1年生が食べることができるのだが、1年生は先に食べた3年生より早く食べ終わり、さらに食器の片付けをしないといけないという決まりがあった。そうなると1年生だった俺たちは、ご飯を味わって食べる余裕なんてなく、いつも流し込むようにして飯を食っていた。
親と離れたくて威勢よく実家を飛び出したはずだが、あまりに厳しい寮生活はキツく、3カ月もしたらホームシックになっていた。躰道部の同級生たちもみんなホームシックになり、部活帰りには線路を走る特急あずさを見ながら「実家に帰りたいなぁ」なんて弱音を吐いていた。
3年の先輩たちに部室に集められ「気合いが足りない」と集団でボコボコにされたこともある。時代が時代だし、どこの部活もそんなもんだったと聞く。厳しい夏合宿や、雪の中で裸足で千本突きをしたのも、今となれば懐かしい思い出だ。
躰道部の顧問の先生には、厳しく、さらに大きな愛情をもって指導してもらった。俺があのまま地元の県立高校に行ってたら、間違いなく暴走族に入り、道を踏み外していたであろう。そんな俺が高校3年間、躰道にのめり込み、マイナーな武道ではあったが3年の頃には団体戦で全日本優勝できるほどの実力もついた。
とにかく朝から晩まで躰道漬けの高校3年間。でも、その頃の俺は、のちに芸人になってテレビに出ようと、もがき続けることになろうとは夢にも思いはしなかったのだ。