息子からの人質要求を突っぱねる家康母

さて、万事がいい加減な織田信雄さまが、勝手に秀吉と仲直りをしてはしごを外されて家康さまは困りましたが、なにしろ粘り腰が持ち味です。秀吉のもとに石川数正さまを送り「信雄、秀吉の両所の和睦は天下万民のためにめでたい」と言わせたので、秀吉は「家康殿の縁者のどなたかを養子に迎えたい」としたのです。

家康さまに限らず、全国の大名の多くは、毛利輝元さまも、上杉景勝さまも、秀吉にいちおう敬意は払いましたし、場合によっては人質も出したのですが、上洛して臣従するというところまでには、皆さん時間がかかりました。

先に順番だけお伝えしておきますと、上杉景勝さまが天正14年(1586年)6月、家康さまが天正14年10月、毛利輝元さまが天正16年(1588年)7月19日です。

そして、その輝元さまより前に、あの公方さま、足利義昭さまが天正15年(1587年)に備後から大坂に移られました。

そのあたりの詳しい話はまたにして、ここでは家康さまが上洛されるまでのことをご紹介いたします。

家康さまは、秀吉の提案からとりあえず養子は出すことにして、久松俊勝さまと家康さまの母である於大さまの三男で、伊予松山藩祖となった定勝さまに白羽の矢を立てました。ところが困ったことに、於大さまがどうしても承知しません。

▲於大の方(「愛知県史 別編 絵画」楞厳寺所蔵) 出典:ウィキメディア・コモンズ

「信康と交換だといって、次男の康俊を今川に人質に出したら武田に連れ去られ、逃げだしてきたが、可愛そうに凍傷で両足の指を失ったではないか。兄の水野信元も、信長の指示だと言って切腹させた。これまで我慢してきたが、可愛い末っ子の定勝は手元に置いて大事にしてるのに、それを人質に出すとは、どこまで母を苦しめる気か!」と烈火のごとく怒り大変な剣幕だったそうです。戦国の母は強いのでございます。

そこで家康さまは、しぶしぶ次男の於義丸(秀康)さまを出すことにいたしました。このとき、於義丸さまは11歳、三男で6歳の長丸(のちの秀忠)さまと、どちらが世継ぎか確定していませんでした。ですが、たまたま手を付けた侍女が生んだ於義丸さまは、はっきりいって自分の子かどうかすら確信がなく、しかも気性も気に入らなかったのです。そこへ来ると、愛妾の西郷局の子で、本人も従順そうな長丸(のちの秀忠)さまのほうが世継ぎにいいかと漠然と考えていたので、思い切ったのでございます。

家康さまは養子として於義丸さまを差し出したあとも、上洛の気配がありません。これには秀吉も焦りましたが、家康さまも本当は追い詰められていたのでございます。

なにしろ、秀吉は関白となって朝廷をバックにした権威も得られましたし、小牧長久手の戦いのときに、(家康さまと)呼応した勢力のうち、根来・雑賀の衆は殲滅され、四国の長曽我部氏も下ってしまいました。本願寺も天満に広大な土地を得て大坂復帰を認められました。しかも、越後の上杉景勝さまと秀吉の関係も改善していたので、家康さまにとっては八方ふさがりだったのでございます。

「いい加減にしないと、滅亡の危機だ」という岡崎城代・石川数正さまら家臣の意見も出てまいりましたが、家康さまは知らぬ顔です。せっかく獲得した領地の寸分でも取られるのが嫌なのです。家康さまはともかくケチなのです。そこで孤立した数正さまは、秀吉のもとに逐電したのです。

滅亡の危機だった徳川を救った島津

同じ時期に、信濃の小笠原貞慶さまや真田昌幸さまも家康さまから離反いたしました。とくに、真田昌幸さまの場合には、家康さまが派兵した大久保忠世らの大軍を散々に打ち負かしてしまいました。

小笠原貞慶さまは、本能寺の変のあとに家康さまに従われ、子の秀政さまを人質に出されました。秀政さまは石川数正さまに預けられたのですが、逐電するときに一緒に連れて来ました。そこで私が預かることになりました。

こうして、家康さまは絶体絶命だったのですが、なんとも運のある方で、九州での島津氏の躍進が家康さまを救ったのでございます。

九州では、豊後のキリシタン大名大友宗麟さま、肥前の竜造寺隆信さま、それに島津義久さまの三大勢力が争っておりましたが、天正12年(1584年)に隆信さまが敗死、宗麟さまも病気がちで往年の面影はなく、島津軍は筑前にまで迫り、九州統一王国が生まれようとしておりました。

▲島津義久が建築した国分城(舞鶴城)跡 出典:だいきち / PIXTA

九州に独立王国が成立して海外と勝手に付き合いだしたら、日本という国は瓦解してしまうことを秀吉はよく理解していました。天正13年(1585年)に「惣無事令」を出して、島津氏に領土拡大をやめるように勧告いたしました。

けれども、源頼朝さまの子孫と称する島津氏はこれを無視して、大友氏の息の根を止めんばかりでしたので、早く家康さまと和睦して、九州制圧に全力を注ぎたかったのでございます。

そこで秀吉は、なんと妹の旭姫を夫の佐治さまと離縁させ、そのうえで家康の継室(築山殿のあと妻はいませんでした)とし、実質上の人質として送り込みました。これには、さすがの家康さまも安心して、天正14年(1586年)の11月に大坂に赴き、秀吉の家来になられたのでございました。

そののち、駿府に家康さまが移られて後顧の憂いがなくなられた秀吉は、天正15年(1587年)、20万の兵で九州へ出陣し、島津義久さまを降伏させました。

そして、秀吉はキリスト教の禁止、朝鮮や琉球王への服属要求、生糸の貿易独占、長崎の教会領回収、博多の大都市改造(いまの博多の町は秀吉のつくった町なのです)など、矢継ぎ早に外交に取り組んだのです。

※近衛前子(1575~1630年、中和門院)は、後水尾天皇・近衛信尋・高松宮好仁親王・一条昭良・貞子内親王(二条康道室、康道の母は豊臣秀勝と江の娘である豊臣完子)の母。近衛信尋と一条昭良はそれぞれ五摂家の養子になったのだが、かなりの人数の男系子孫は後陽成天皇の男系男子子孫であり、皇位継承問題でも話題になることがあり、その意味でも皇室の歴史のなかでキーパーソンになる女性である。

※小笠原秀政は、のちに徳川信康と徳姫の子である登久姫と結婚し、その子は小倉藩や唐津藩の祖となったり、蜂須賀至鎮や細川忠利の正室となり多くの子孫を残し、今上陛下にもつながる。大坂夏の陣で戦死。