一時期は北九州を制覇したキリシタン大名・大友宗麟

天正14年の4月に、九州豊後の大友義鎮(おおともよししげ)さまが大坂城にやってこられました。この方はキリシタン大名で、宗麟(そうりん)という名で有名ですので、ここではそちらを使わせていただきます。

鎌倉に幕府を開かれた源頼朝さまは、九州のうち、奥三国(薩摩・大隅・日向)を島津さま、前三国(筑前・肥前・豊前)を少弐さま、後三国(筑後・肥後・豊後)を大友さまという、側近の家臣を守護とされて統治されたのでございます。

この方々は、初めは鎌倉におられて代官を派遣されていたのですが、元寇に備えるために九州に引っ越しをされ、それから400年後の私たちの時代にも健在でございました。

ただし、少弐さまは、龍造寺さまに取って代わられてしまいましたが、島津さまと大友さまは戦国の世を生き残っておられました。

信長さまの天下の頃、北九州では大友宗麟さま(1530~87年)が全盛期を迎え、龍造寺隆信さま(1529~84年)が日の出の勢いでございました。この宗麟さまと隆信さま、そしてザビエルさまが日本上陸したときの殿様である島津貴久さまの嫡男・義久さま(1533~1611年)は、ほぼ同世代です。

このうち、まず頭角を現したのは宗麟さまでございます。島津忠良さまや貴久さまのように傍流出身でなく、守護家の嫡男で、しかも母親は周防の名門・大内氏出身ということで、若くして九州を代表する武将として、自他共に認める存在だったのです。

もともと、大友氏と大内氏は博多の支配権を争っていたのですが、天正19(1591)年に大内義隆さまが、陶晴賢の謀反で横死されてからは、宗麟さまの弟である義長さま(大内義隆さまの猶子、後に解消)が大内家を継ぐなどして、北九州では宗麟さまに抵抗できる大名はいなくなりました。

▲大友宗麟公像 出典:伯耆守 / PIXTA

その所領は、豊後・豊前・日向・肥後・筑後・筑前・肥前に及び、伊予にまで勢力を伸ばし、将軍家からは大内氏の家督継承者とされ、信長さまからは防長二国を与えられることになっておられました。少なくとも、大内氏から毛利氏、少弐氏から龍造寺氏に交替があった幸運なある時期、北九州をほぼ統一したことは間違いありません。

また、宣教師たちも府内(大分)を訪れ、一族の伊東マンショは、天正遺欧使節のひとりとしてローマへ旅立ちました。

一方、佐賀の龍造寺家は、主家の少弐家と争い、大内家と誼(よしみ)を通じて着々と力をつけていました。大内義隆さまの滅亡で足踏みしたものの、少弐氏を滅ぼし、肥前東部を支配下に置きました。

薩摩では島津義久さまや義弘さまらの四兄弟が、貴久さまの死の翌年である元亀3年(1572年)の「木崎原の戦い」で、日向の伊東義祐(子孫は飫肥藩主)さまを撃破し、その翌々年には大隅の肝付氏(幕末の薩摩藩家老・小松帯刀はこの一族)などを最終的に服従させて、ほぼ三州平定に成功いたしました。

宗麟さまは、伊東氏の救援要請に応えて日向へと南下しましたが、天正6年(1578年)の耳川の戦いで島津軍に大敗しました。ここで宗麟さまが勝てば、日向はキリシタン王国にする約束だったといいます。その意味では、世界史的な意味のある戦いだったのかもしれませんが、宗麟さまは“神さまに祈るばかり”で積極さを欠き、ひどい負け戦であったそうでございました。

この大友軍の敗北を見て、龍造寺隆信さまが、大友氏の支配下にあった筑前・豊前・筑後などに侵入し、肥前西部でも有馬氏らを圧迫したものですから、有馬氏は島津さまに救援を求めました。

そして、島原半島の沖田畷(おきたなわて)の泥田での戦いで、島津・有馬連合軍が龍造寺隆信さまの首を取ったのです。天正12年(1584年)のことでございます(本州では、小牧長久手の戦いがあった年です)。

ここに、九州全域で島津氏に並ぶ者はなくなり、島津氏による九州統一王国が、現実味を持ってまいりました。

島津の勢いに危機感を持った宗麟が秀吉にSOS

それに危機感を持った宗麟さまは、天正14年(1986年)にわざわざ大坂までお越しになって、秀吉の助けを求められたのでございます。

秀吉は喜んで大坂城を案内し、豪華な天守閣に一緒に登り、宗麟さまを驚かせました。宗麟さまは秀長にもお会いになりましたが、秀長は「内々の儀は千利休に、公儀の事は秀長におまかせあれ」と言って、宗麟さまを激励したそうです。

これに先だって、前年の10月に秀吉は、大友・島津両氏に停戦令を発して、島津氏は肥後半国・豊前半国・筑後を大友氏へ返還し、肥前を毛利氏に与え、筑前は秀吉の所領とし、島津氏は本領である薩摩・大隅・日向半国に加え、肥後半国・豊前半国を安堵するといった解決案を出したのですが、宗麟さまは停戦令をすぐに受諾したのに対し、島津義久さまは、鎌田政近さまを秀吉のもとへ派遣して、いろいろと言い訳をするばかりではっきりと受け付けませんでした。

それどころか、筑前にまで攻勢を強めましたので、秀吉は7月に島津への追討令を出し、とりあえず讃岐の仙石秀政に、長宗我部や十河(そごう)など四国勢を率いて宗麟さまを救援するように命じ、毛利にも出陣を要請いたしました。

ところが、秀吉の到着までは動かないとの指示を破った仙石秀久は、大分郊外の戸次川の戦いで島津軍の策略に引っかかり、深追いして散々な敗戦をし、本人は無事でしたが、長宗我部元親さまの長男である信親さまや、十河存保(まさやす)さまを戦死させてしまいました。

筑前では、太宰府郊外の岩屋城に拠った高橋紹運さまは壮絶な玉砕をし、その実子である立花宗茂さまが福岡市の東にある立花城で奮戦して、ようやく息をつくといった情勢でございました。

かねてより信長さまや秀吉に助けを求めていた大友宗麟さまを、秀吉は救援したかったのですが、東で家康さまと対峙していることから、思うに任せませんでした。

そこで、秀吉はしぶしぶ、妹の旭姫をわざわざ夫と離縁させたうえで、家康さまの後室として送り、母の大政所まで岡崎に行かせて、やっとの思いで家康さまにとって好条件で従わせたのは、前回ご説明したとおりです。

信長さまや秀吉は、それなりに国際的な視野を持っていましたので、九州に島津氏の独立王国ができて、海外と勝手に付き合いだしたら、日本という国は瓦解してしまいかねないことをよく理解していました。

また、貿易上の利益からいっても、新しい文化や技術の吸収といったことからも、南蛮文化の窓口である九州は、是が非でも秀吉にとって抑えておかねばならない要地でございました。

さらに秀吉は、大陸進出の夢を信長さまから受け継いでいました。それに比べると、土地は広いがとくに新しいものはない東日本は、それほど魅力がなく、ごたごたの種にならねば十分で、家康さまが上手に北条などを抑えてくれたら良かったのです。

家康さまとの和平が成ったことで、後顧の憂いがなくなった秀吉は、天正15年(1587年)の3月に20万の兵で九州へ出陣し、5月には島津義久さまを降伏させました。このあと、秀吉はキリスト教の禁止、朝鮮や琉球王への服属要求、生糸の貿易独占、博多の大都市改造などを矢継ぎ早に打ち出しました。

戦後の九州は、毛利から備後や山陰を取り上げて、北九州を与えるという案もありましたが、結局の所は、島津義久さまには薩摩を、弟の義弘さまに大隅を安堵し、義弘さまの子で義久さまの跡継ぎに予定されていた久保さまに対しては、日向国諸県郡のうち真幸院を与えました。一方、地侍でうるさ型が揃っている肥後は、佐々成政さまに任せました。

▲佐々成政歌碑 出典:髙橋義雄 / PIXTA

秀吉は、筑前国筥崎(現在の福岡市東区)に陣を構え、貿易港博多(福岡市博多区)を直轄都市としたうえで、唐入り(明遠征)の基地とし、筑前は小早川隆景さまを伊予から移し入れて、筑前のほかに筑後と肥前の一部を併せて約37万石、黒田孝高(如水)さまには豊前国のうち6郡の約12万5000石、宗麟さまから独立大名として取り立ててほしいと頼まれた立花宗茂さまには筑後柳川13万2000石、毛利勝信さまには豊前小倉(福岡県北九州市)約6万石という配置にしました。

宗麟さまのお子・義統さまには豊後一国が安堵されました。龍造寺政家さま、純忠のお子・大村喜前さま、松浦鎮信さまは、それぞれ肥前国内の所領が、宗氏は対馬が安堵されました。また、あちこちに蔵入地(豊臣氏直割領)も設定されたのです。

宗麟さまご自身については、残念なことに九州遠征の最中に亡くなられてしまいました。たいへん気宇壮大で新しい文化にも理解がある方でございましたが、気まぐれなところと、気に入った女性がいると家臣の奥方にまで手を付けてしまわれる、ということで人望がいまひとつだったようでございます。