平安貴族の引っ越しに欠かせなかった陰陽師
宗教文化史を専門とする山下克明著の『平安時代陰陽道史研究』(思文閣出版)によれば、当時の一次史料からは、安倍晴明が陰陽師として活動した例が65件確認できます。その内訳は以下の通りです。
- 怪異や病気の原因を占う占術活動が13件(20%)
- 御禊・反閇や鬼気祭などの呪術・祭祀活動が23件(35%)
- 神仏事や行幸などの際の日時・方角の吉凶禁忌勘案活動が17件(26%)
この統計から、この3分野が陰陽師の基本的職務だったとしています。
藤原道長の日記『御堂関白記』も一次史料の1つで、そこから1例を挙げましょう。1005年2月10日の条です。
戌の刻、東三条に渡る。上卿十人ばかり来らる。西門に着くの後、陰陽師清明の遅れて来たる。随身を以て召すに、時剋内に来たる。新宅作法あり。
藤原道長が東三条第に引っ越しを行おうとしたが、安倍晴明がまだ到着していなかったため、門前で待たねばならなかった。使用人に様子を見に行かせたら、まもなく到着して、新宅作法が実施された、というのです。
ここにある「新宅作法」とは、「新宅礼」「新宅儀」などとも呼ばれ、平安貴族にとっては引っ越し(お渡り。移徙)に際して欠かせない儀礼でした。すなわち、平安貴族の引っ越しにはプロの陰陽師(官人陰陽師)が欠かせなかったのです。
「新宅作法」は、さまざまな呪術を含む煩瑣な作法からなり、細かいところは省略するとして、祭祀をしなければならない対象は、門神・戸神・井神・竈神・堂神・庭神・厠神など、これから同居することになる宅神(家の神)一同と、土公神(どくうじん)と称された土地の精霊、空き家に住み着く「モノ(物怪)」などでした。
おそらく「新宅作法」が一通り終わったら、建物のどこかに「鎮宅の符」が押されたのでしょう。頼朝の御所に転用されたのは、山内の兼道という者の邸宅とのことですが、安倍晴明自身に東下する時間があったとは思えず、代理で派遣された一門の誰かが貼ったものと思われます。
東国武士たちが、この時点で安倍晴明の名前と事績について知っていたかどうかは疑問ですが、頼朝の周囲に集まりつつあった下級貴族たちであれば知っていたとしても不思議でなく、東国にまだ本職の陰陽師がいないときであれば、また聞きのまた聞きを重ねることで、陰陽師に対する畏怖の念が必要以上に高まった可能性も十分に考えられます。