大泉洋が源頼朝役を演じ、話題を集めている現在放送中のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。学生時代に習った鎌倉時代の歴史を思い出している方も多いことでしょう。しかし、日本史の教科書には出てこない、流行りの「呪術」「陰陽道」が深く関わっていると聞いたら、歴史に疎い方も興味が湧くのではないでしょうか。歴史作家の島崎晋氏に、源頼朝と陰陽道との関係を聞いてみました。

※本記事は、島崎晋:著『鎌倉殿と呪術 -怨霊と怪異の幕府成立史-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

13歳で伊豆国へ流刑――不幸から始まった頼朝の人生

伊豆国に流されてから挙兵までの20年、要監視対象にありながら、源頼朝は他国への移動を除いては比較的、自由に振る舞うことができていました。

ずっと同じ場所に住んでいたわけでなく、当初は東伊豆にいたらしく、西伊豆に移ってからは現在の静岡県伊豆の国市四日町の蛭ケ小島に居所を構え、次いで北条氏の館に迎えられたようです。

▲蛭ケ小島(著者撮影)

おそらく西伊豆に移ってからのことでしょう。頼朝は走湯山権現の文陽坊覚淵を師と仰ぎ、法華経の教えを受けます。一部八巻二十八品からなる法華経は、当時の上流社会でもっとも人気のある経典でした。

頼朝は1159年の平治の乱で父・義朝をはじめ、長兄・義平や次兄・朝長など、一族郎党の多くを失っていますから、彼らの菩提を弔うのは当然として、それとは別に現世での大願がありました。そのことを伝えるのが『吾妻鏡』の治承4年(1180年)7月5日条にある以下の記述です。

武衛(頼朝)は覚淵に相談した。
「私は心に思うところがあって、法華経の読経一千部を終えた後に真意を表明しようと決めていたが、事態が急変したので、もう時間がない。転読した分の八百部でもって、御仏に自分の願いを申し上げたいが、どうであろうか」
覚淵は何も問題ないとして準備を整えると、速やかに儀式を遂行した。 

ここに「転読」という見慣れない言葉が出てきますが、『広辞苑』を引くと「大部の経文の初・中・終の要所たる数行または題目と品の名だけを略読して全巻を読誦したことに代えること」とあります。全巻を音読する「真読」に対する語で、転経とも呼ばれます。

また「心に思うところ」の内容について、『吾妻鏡』の同じ条には「八条入道相国(平清盛)の一族を退治」と明記されていますが、『吾妻鏡』が北条氏による執権体制を正当化する意図で編纂されたことを思えば、そこにある記述をすべて真に受けるわけにはいきません。「心に思うところ」となればなおさらです。

これは鎌倉入りを果たして以降の話ですが、頼朝の法華信仰が見せかけでないことは、敵対した長尾定景を許した一件でも明らかです。

『吾妻鏡』の1181年7月5日条によれば、定景は石橋山の戦いで頼朝方の佐奈田余一を討ち取った憎むべき相手で、頼朝はその身柄を与一の父・岡崎義実に預けていました。慈悲深い義実は、定景を晒し首にするのをためらい、執行を先延ばしにします。

そのうちに、定景が法華経の熱心な信者であることがわかると、夢のお告げがあったからとして、もし定景を誅(ちゅう)したならば、かえって余一の成仏の妨げになるからと、頼朝に定景の助命と赦免を願い出ました。すると頼朝は義実の願いを聞き入れ、定景を赦したというのです。

▲石橋山古戦場跡(著者撮影)

毎日怠らず経文を唱え続けた篤い信仰心

同じく『吾妻鏡』の治承4年(1180)8月18日条には、頼朝が数年来、毎日怠らず唱えた経文が、以下のように列記されています。

般若心経十九巻
八幡、若宮、熱田、大箱根、能善、駒形、走湯権現、礼殿、三島、熊野権現、若王子、住吉、富士大菩薩、祇園、天道、北斗、観音(以上に宛てて各一巻を読み、神仏への手向けとする)

観音経一巻、寿命経一巻、毘沙門経三巻、薬師呪二十一返、尊勝陀羅尼七返、毘沙門呪二百八返(以上は所願成就と子孫繁昌のため)

阿弥陀仏名千百返(一千返は父祖の成仏祈願のため。百返は鎌田正清の解脱のため) 

ここにある「父祖」とは、1156年の保元の乱に敗れて斬首された祖父・為義と、先にも記した父・義朝を指しており、鎌田正清は義朝の乳母子にして腹心、なおかつ最期を共にした人物です。

また「観音経」は、法華経の第八巻第二十五品の観世音菩薩普門品の別称ですから、頼朝による法華経の転読は、もっぱらこの部分を対象にしたのかもしれません。観音経は観世音菩薩による衆生済度の様子を説く経文です。

たとえ一部であっても、これだけの経文を毎日唱えるには、かなりの時間と労力を費やさねばならず、生半可な思いで続けられるはずもありません。頼朝に強い意志があったとすれば、それを支えていたのは自分がやらねばならないという、武門源氏の嫡系としての使命感及び自尊心でしょう。

頼朝は義朝の三男でしたが、生母が熱田大宮司・藤原季範(すえのり)の娘で、同家は下級とはいえ、京都の貴族社会の一員でした。義平や朝長をはじめ、他の兄弟の生母がみな身分の低い女性であったことから、当時の習慣に照らして、家督を継ぐのは頼朝で決まりだったのです。

季範以下、熱田大宮司家は待賢門院に仕えていました。待賢門院の本名は藤原璋子。鳥羽院の天皇在位時に皇后であった女性で、崇徳・後鳥羽両天皇の生母です。義朝は熱田大宮司家の伝手で貴族社会への仲間入りを果たしました。

▲待賢門院像(法金剛院蔵) 出典:ウィキメディア・コモンズ(パブリックドメイン)

頼朝もまた12歳の春に任官。それからわずか一年半で従五位下・右兵衛権佐になるなど、院(上皇・法皇)の近臣の子弟並みの出世で、武門としては異例のスピード昇進を果たすのでした。

まだ幼さの残る年頃ですが、短期間とはいえ、物覚えの一番よい時期に貴族社会へのデビューを果たし、貴族文化を生身で味わった経験は、頼朝の生涯に大きな影響を及ぼしました。法華経をはじめとする仏教はその一部です。

もっとも、好事魔多しとはよく言ったもので、保元の乱という大流血をきっかけに得られた大出世だけに、再び大流血が起きたときに敗者となれば、すべてを失う危険がありました。事実、頼朝はこのあとに起こった平治の乱では、まだ13歳ということで一命こそ救われますが、伊豆国へ流されます。

流刑には近流・中流・遠流の三等があり、伊豆への配流は安房国・常陸国・佐渡国・隠岐国・土佐国などへの配流と並び、流刑のなかでも最も重い罰とされていました。

▲『平治物語絵巻』三条殿焼討 出典:ウィキメディア・コモンズ(パブリックドメイン)