現在放送中のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で描かれる平安末期から鎌倉前期とは、どのような時代だったのでしょうか? 日本史についての著作を多数出版している島崎晋氏が、当時の武士たちの関心や習慣などから読み解きます。

※本記事は、島崎晋:著『鎌倉殿と呪術 -怨霊と怪異の幕府成立史-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

東国武士の一番の関心は所領の安堵

▲『天子摂関御影』の平清盛肖像(宮内庁三の丸尚蔵館所蔵) 出典:ウィキメディア・コモンズ(パブリック・ドメイン)

日本で仏教が受け入れられたのは飛鳥時代のことで、当初は戦勝や雨乞いを祈願する程度でしたが、奈良時代には諸国に国分寺と国分尼寺が建立され、鎮護国家の祈願とともに、仏教の教えを通じた思想統制が推進されます。仏教はいまだ天皇を頂点とする支配者のための宗教だったのです。

仏教の新たな潮流として、死後の平安に重きを置く浄土信仰や、現世志向の強い密教がもたらされて以降、仏教は藤原摂関家を筆頭とする貴族のための宗教に変質して、鎮護国家の役割は大きく後退します。

京の都や南都(奈良)で絢爛豪華な寺社の造営が相次ぐなか、東国武士のあいだでも仏教は知られていましたが、識字率が極端に低い関係上、教えに対する理解は非常に浅く、大多数の者は僧侶の読経や法話を神妙な面持ちで聞きながら、神前・仏前では心のなかで願い事を唱えるばかりでした。

そんな東国武士の一番の関心は、やはり所領の安堵です。国衙領(公領)ではなく、自分たちが開墾した私有地(荘園)ですから、ことのほか思い入れがあります。

他の在地領主による襲撃や国衙(国府の政庁)による強制徴税・収容を阻止するために、単純な武力抵抗に加え、都の摂関家や皇族クラスの有力者や大きな寺社に所領を寄進し、圧力をかけてもらう方法もとられました。

このような有力者は本家、在地領主は下司と呼ばれ、両者の間に中堅貴族からなる領家と預所という在地の代理人が介在する場合もありましたが、どちらにせよ、すべては名義上の譲渡にすぎず、実際に所領を管理して徴税にあたるのは、あくまで在地領主でした。本家や預所には何割かの取り分を約束して、国衙の手出しをやめさせるとともに、裁判で有利な裁定が下るよう、裏から手をまわしてもらう仕組みだったのです。

朝廷に反抗するという選択肢はなかった

けれども時の経過とともに、その効果も薄れてきたことから、東国武士は不満を募らせていました。平治の乱で勝者となった平清盛と平氏政権には大いに期待したのですが、伊勢平氏は期待に応えてはくれず、いい目を見ることができたのは、譜代の家人と化した伊勢・伊賀の在地武士だけで、東国武士たちの不満と怒りは沸点に達しようとしていたのです。

そのときに起きたのが以仁王と源頼政による挙兵で、東国武士の関心は雌伏して時節の到来を待っていた武門源氏の惣領たちに集まります。そのなかで最後まで勝ち残り、鎌倉に幕府を創設したのが源頼朝だったのです。

▲『以仁王像』(1872年/蜷川親胤(蜷川式胤)模写) 出典:東京国立博物館所蔵(ウィキメディア・コモンズ)
▲源三位頼政像(MOA美術館蔵) 出典:ウィキメディア・コモンズ(パブリック・ドメイン)

意外に思われるかもしれませんが、当時の東国武士には朝廷に反抗するという選択肢どころか、発想すらありませんでした。

平将門の敗亡が尾を引いていたわけではないでしょうが、本領安堵をはじめ、あらゆる権利を保証するのが誰なのかと突き詰めていけば、結局は天皇または院に行き着くのですから、朝廷に刃(やいば)を向ける発想がなくてもおかしくはなかったのです。

東国武士が求めたのは、自分たちの代表として朝廷と交渉して、満足のいく結果を引き出せそうな貴種です。ただの武士ではなく、由緒ある家柄であることも必要でした。それまで同列だった人間に頭を下げたくはなく、伊勢平氏が失格となれば、もはや候補となりうるのは武門源氏しかなかったのです。

▲『源平合戦図屏風』中央に福原の御所、右方は生田の森の争い、上部は一ノ谷、左方は須磨の浦での戦いが描かれている 出典:ウィキメディア・コモンズ(パブリック・ドメイン)

運にも恵まれ、源頼朝は絶対的なカリスマに変貌を遂げましたが、二代目の頼家、三代目の実朝に同じものを求めるのは酷な話で、武門源氏の嫡系が途絶え、四代将軍として都から頼朝の妹の血を引く九条道家の子息が迎えられるに及んでは、足りない部分を何か他のもので補わないことには、どうにも立ち行かなくなります。そこで着目されたのが陰陽道でした。

桓武平氏の後裔と称しながら、数代前の祖先の名さえ伝わらない北条氏が幕府を牽引していくためには、天意(天の意志)を知る手段という触れ込みの陰陽道は、またとない武器だったのです。

京都ではすでに広く浸透して、貴族らの日常生活に欠かせないものとなっていましたが、東国ではまだあまり知られていないのも好都合でした。神秘のベールに包まれていたほうが、権威付けの小道具に向いていたからです。