近年放送された大河ドラマのなかでも、快調なスタートを切った『鎌倉殿の13人』。豪華キャストと軽妙なストーリー展開が、歴史好き以外の層も取り込んでいるようです。歴史作家の島崎晋氏によると、ドラマを楽しむためにも「呪術」「陰陽道」が、平安~鎌倉時代の生活に深く関わっていることを知っていたほうがいいようです。

※本記事は、島崎晋:著『鎌倉殿と呪術 -怨霊と怪異の幕府成立史-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

頼朝と政子の「夢」にまつわる逸話

源頼朝の観音信仰との出会いには、夢が関係します。これまた『吾妻鏡』が伝える逸話ですが、頼朝がまだ3歳のとき、乳母の一人が清水寺に参籠して幼児の将来を懇ろに祈り、14日を経たところ、夢のお告げがあり、目覚めてみると、2寸ほどの銀製の正観音像があったので、頼朝も物心ついてからずっとその像を身辺から離さず、篤い帰依を続けたというのです。

▲『吾妻鏡』(吉川本)頼朝将軍記の首書 出典:ウィキメディア・コモンズ(パブリックドメイン)

先祖の頼義が石清水八幡宮で見た夢とよく似ていますが、このような「夢想告(夢のお告げ)」が『吾妻鏡』には数十件も出てきます。『古事記』『日本書紀』にも東征中のイワレビコノミコト(のちの神武天皇)が、夢のお告げで神剣を得る話がありますが、あまりの類似から、神武神話がもととなり、後世の英雄豪傑に関しても、夢のお告げで新たな武器を得る形式が定番化したとも考えられます。

▲『神武天皇東征之図』 八咫烏に導かれる神武天皇 出典:ウィキメディア・コモンズ(パブリックドメイン)

「夢想告」が数十も出てくるくらいですから、『吾妻鏡』にある夢は武器の獲得に限られません。『吾妻鏡』とほぼ同時期に成立したと見られる『曾我物語』には「夢売り」の話が出てきます。

北条政子には時子という妹がいました。ある夜、時子が夢を見ます。険しい峰に登り、日月を袖にして、手にはたわわに実った橘を持っているというもので、時子から話を聞いた政子は吉夢とわかりながら凶夢と偽り、災いを避けるには移転の法を行うしかなく、自分がその夢を買ってやろうと、唐鏡と衣を差し出します。その夜、政子は白鳩が金函をくわえて来る夢を見ますが、朝になると、頼朝から初めての恋文が届けられていたのでした。 

『曾我物語』には、これとは別に、政子と頼朝の夢にまつわる逸話をもう1つ伝えています。

2人して伊豆山権現に参籠したとき、政子は不思議な夢を見ます。権現の宝物殿から中国伝来の大きな鏡を持ち出し、袂(たもと)に収めたまま石橋を下ろうとしたところ、鏡に日本六十余州がすべて映りました。そのことを頼朝に伝えますが、頼朝が「鏡は女性のためのもの」と言うので、政子がそのまま持ち帰りました。

この話は、鎌倉幕府の実権が源氏将軍から北条氏の手中に移ることを正当化するために創作されたと考えられますが、夢が利用されている点はやはり見逃せません。

夢については、ユングやフロイトのような精神分析の第一人者が入念な分析を行いながらも、いまだ全容解明には至っておらず、誰もが経験する身近なものでありながら、もっとも謎の多い世界といえます。中世の人々も、彼らなりに夢の意味を合理的に説明しようと知恵を絞ったのです。

火災に遭わなかったのは安倍晴明のおかげ?

1180年8月24日、石橋山の戦いでは十倍もの兵力差があったにも関わらず、正面切っての戦いを挑み、大敗を喫しながらも頼朝は生き延びました。図らずも強運の持ち主であることも実証され、ここに頼朝は晴れて、東国武士が棟梁に頂くに値する貴種として認められました。

頼朝は、かねてから鎌倉に目をつけていたようですが、事態の展開があまりに急であったことから準備が間に合わず、とりあえずは民家を仮の館とします。

10月7日には、八幡太郎義家が修復した由比郷の八幡社に向かって遥拝を行ったあと、視察のため亀谷(現在の扇谷)を訪れます。父・義朝の旧宅跡地に御所を建設したかったのですが、土地が狭いうえに、岡崎義実が義朝を弔うための寺院を建立していたことから、取りやめにします。

同月9日には御所の建設場所も決まり、工期短縮のため、建築資材は既存の建物から移築することにしました。このとき選ばれた建物は、正暦年間(990~995年)の建造以来、安倍晴明の「鎮宅の符」が押されているおかげで、1度も火災に見舞われたことがないという代物でした。

安倍晴明は、摂関政治を確立させたことで知られる藤原道長と同時代を生きた実在の陰陽師です。現在では日本史上最強の呪術使いとして知られていますが、その実態は陰陽道をもって働く国家公務員でした。

▲安倍晴明(菊池容斎画) 出典:ウィキメディア・コモンズ(パブリックドメイン)

古代の日本では「誓約」の名で、神に祈りを捧げながら事の成否や吉凶を占うことがしばしば行われており、『古事記』『日本書紀』でも随所に見られます。

平安時代には、鹿の肩甲骨や亀の甲羅を用いる例は稀になりますが、占い自体は廃れることはありませんでした。

陰陽道における占いは六壬式占(りくじんしきせん)と呼ばれ、安倍晴明が中国伝来の諸書をまとめた内容に、自身の解説を加えた『占事略決』という書は、長らく陰陽道の聖典のごとく扱われていました。現存するものが原本の純粋な写本であれば、式盤諸神の組み合わせ方や推断の求め方、病気や出産、失せものなどの占い方が36章にわたり解説されています。