権力の座を巡る男たち女たちの駆け引きを描き、歴史好き以外の層も取り込んでいるNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。歴史作家の島崎晋氏によると、この時代の「結婚」には現代とは違う目的があったようです。
※本記事は、島崎晋:著『鎌倉殿と呪術 -怨霊と怪異の幕府成立史-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
時子と結婚した荒くれ悪禅師・阿野全成
源頼朝の挙兵には、佐々木定綱(さだつな)・盛綱(もりつな)・高綱(たかつな)兄弟も参加していました。彼らの父である秀義(ひでよし)は、平治の乱に際して源義朝の味方として戦い、頼朝が伊豆国へ流されてからも平氏になびかなかったことから、祖先伝来の地である近江国佐々木庄を取り上げられてしまいます。
そこで、母方の伯母の夫である藤原秀衡を頼ろうと奥州へ向かいますが、相模国まで来たところで、彼に一目置く渋谷重国の好意に甘えて居候生活を20年も続け、そのあいだに子息の定綱らが頼朝に仕えるようになっていたのです。
石橋山の戦いに敗れ、頼朝ともはぐれてしまった佐々木兄弟は1180年8月26日、箱根の山奥を出たところで、思わぬ人物と遭遇します。その名は全成(ぜんじょう)。頼朝の異母弟にあたります。
全成の生母は九郎義経と同じく、九条院(近衛天皇の皇后)の奥向きの召使いであった常盤御前です。常盤は義朝とのあいだに今若・乙若・牛若の三児を生みますが、平治の乱で義朝が殺されたことで、3人はそれぞれ別の寺社に入れられることとなりました。
三児のなかでも最年長の今若は、都の醍醐寺に入れられ、成長を待って剃髪しますが、剛毅な性格であったことから「醍醐寺悪禅師」と呼ばれました。頼朝が挙兵したと聞くと、居ても立ってもいられず、醍醐寺を抜け出して、東国へ下ります。
箱根で偶然出会った佐々木兄弟とともに、渋谷重国邸に赴いてからしばらくして、下総国鷺沼で頼朝との合流を果たし、同年11月19日には頼朝から武蔵国長尾寺を譲渡されます。
それから間もなくのことと思われますが、全成は駿河国阿野庄を与えられ、阿野全成または阿野法橋と称します。「法橋」とは法印、法眼に次ぐ僧侶の位で、阿野は姓でなく、名乗りのようですが、これと前後して、北条政子の妹の時子と結婚したことから、話がややこしくなります。
まだ僧侶の妻帯が認められていない時代ですから、全成も還俗しなければならなかったはずです。還俗しながら俗称として僧名を残したのか、還俗して子どもをつくってから再度剃髪したのかはわかりませんが、武門源氏の血を引く彼が子ども、それも二人の男児をもうけたことは、のちに身の破滅に直結します。
ただし、平時子・平時忠の異父兄にあたる能円も、僧侶の身でありながら堂々と妻帯しているので、院か山のトップの許可があればよいなど、何かしら抜け道があったものと考えられます。
外戚として影響力を保ち続けるのが狙い?
話を全成と北条時子に戻しましょう。2人の結婚がいったい誰の意向で行われたのかは明らかでなく、考えられる候補者は源頼朝、北条時政、北条政子の3人です。
頼朝に男児ができなかった場合、あるいは男児が早世するか不才であった場合の備えとして、さらには武門源氏と北条氏の関係強化という点ではメリットが多そうですが、それは勝手読みにすぎ、実のところ、とてつもないデメリットも想定できました。優先順位が低いとはいえ、全成の男児を擁立すれば、政権奪取に成功する可能性が生じたからです。
当時の価値観に照らしても、頼朝はかなり猜疑心の強い人間でした。全成は醍醐寺で修行していたのですから、真言密教の基礎を学んでいたはずで、もっぱら祈祷をもって武門源氏の発展に貢献させるのが、穏当な道筋でした。
密教と陰陽道は互いに相手の要素を取り入れながら発展した歴史があるため、密教にも陰陽道に負けないくらいの効果が期待できました。そのため頼朝が全成の還俗に積極的であったとは考えづらいのです。
そうだとすれば、可能性が高いのは北条時政・政子の父娘です。二重の婚姻関係を結んでおけば、頼朝の血筋が途絶えても慌てなくてすみます。全成と時子のあいだに生まれた男児に後を継がせれば、北条氏が外戚として影響力を保持し続けることができるのですから。
頼朝も武蔵国長尾寺を与えた時点では、兄弟で聖俗の役割分担をする計画を抱いていたと思われますが、舅と妻からせっつかれては、嫌とも言えなかったのでしょう。
ちなみに、北条時政には前妻と後妻とのあいだで合わせて11人の娘があり、政子は長女、時子は三女です。あいだに位置する次女は源氏一門の足利義廉、五女も同じく源氏一門の平賀朝雅、四女は武蔵国の畠山重忠と結ばれています。
ついでながら、北条政子の結婚年齢が21か22歳と、当時の常識に照らせば非常に遅い点は不可解と言うしかありません。
頼朝を婿として迎えた時点の所領が思いのほか狭く、頼朝の挙兵時に動員できた兵力が一族郎党合わせても50人に満たず、目代の首を獲ったのが、追って援軍として派遣された佐々木盛綱と加藤景廉であったことなどをあわせ考えると、婚姻関係を結ぶには弱小すぎて避けられていた可能性もあります。
それ以外に理由があるとするなら、頼朝と出会う前に死別したか離婚したかで、政子には婚姻歴があったと考えるのが自然です。あとになって全ての証拠が消し去られたのではないでしょうか。