夢に現れた老翁が頼朝への伝言を託した
本当に生きながら天狗になったかどうかはともかく、平治の乱から平氏の滅亡に至る一連の出来事が、崇徳院の祟りと認識されていたことは事実でした。
『保元物語』には、旧知の西行法師が讃岐国を訪れ、国府と埋葬の地でそれぞれ歌を詠んでからは怨霊も静まったとありますが、果たしてどうでしょう。西行が同地を訪れたのは、崇徳院が埋葬されてから3年後のこと。平清盛と後白河院の協調体制がうまくいっていたことにより到来した、小康状態にすぎませんでした。
すでに1164年には遺体が荼毘に付された場所に白峰宮が創建され、1177年には崇徳の諡号が贈られていましたが、身に覚えがある人びとはもちろん、一連の出来事をその耳目に収めてきた都人も、一件落着とは思っていなかったようです。
頼朝も、父義朝が保元の乱の当事者でしたから他人事とは思えず、『吾妻鏡』の1185年4月29日条には、備中国妹尾郷を讃岐国の法華寺(現在の頓証寺)に与え、崇徳院の菩提を弔う費用の捻出に充てたとあります。
同じく5月1日条には、頼朝が上記のことを親類の妹尾尼に知らせたとの記事が見られ、彼女は生前の崇徳院から寵愛を受けていたということですから、崇徳院の菩提を弔うに最適の人物でした。
けれども、同年6月20日、7月9日、同月19日と都で大地震が相次ぎ、神社仏閣の建物や院の御所でも倒壊や破損が少なくありませんでした。人びとの不安が高まるなか、8月27日に今度は鎌倉で地震が起こり、『吾妻鏡』は「御霊社(現在の御霊神社)が鳴動した」と記します。
御家人の大庭景能(おおば かげよし)が、怪異の前兆と注進してきたので、頼朝が急ぎ御霊社に参拝したところ、宝殿の左右の扉が壊れていました。祓が必要と感じた頼朝は、願書一通を奉納したのち、巫女たち各人に藍摺二反の反物を賜わらせたとも、『吾妻鏡』にはあります。
頼朝も不安なら、後白河院はもっと不安だったはずです。おりよく勅使の大江公朝(おおえの きみとも)が鎌倉にやってきたので、頼朝は公朝が帰途につくとき、祈祷と徳政の実施と並び、崇徳院の霊を特に崇め奉るよう言い添えるのを怠りませんでした。
崇徳院の怨霊を鎮めるため、鎌倉でできることはないか。頼朝はずっと思案していたはずです。その思いが天に通じたのか、北条政子に仕える下野局の夢に、鎌倉景政と名乗る老翁が現れ、頼朝への伝言を託したとする記事が、『吾妻鏡』の同年12月28日条に見られます。
鎌倉景政は、八幡太郎義家の下で後三年の役に従軍した武士で、片目に矢を受けながら奮戦を続け、同僚が矢を抜くため顔を足で踏もうとしたところ、武士の顔に土足をかける無礼を咎め、陳謝させたという逸話の持ち主です。梶原氏と大庭氏から祖と仰がれる人物でもありました。
その景政の伝言とは次のようなものです。
「讃岐院(崇徳院)が天下に祟りをなしています。私はお止め申し上げましたが、叶いません。若宮別当に申してほしい」
報告を受けた頼朝はしばらく無言でしたが、ややあって、これも天魔の仕業に違いないとして、鶴岡八幡宮寺別当の円暁に国土の無事を祈祷するよう命じるとともに、同宮寺の供僧・職掌(下級の神官)一同に小袖・長絹などを支給したといいます。