NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を見て、平安・鎌倉時代に興味を持った人も多いかもしれません。ドラマでは我々が知っている史実に基づき、活き活きとした登場人物たちがコミカルに描かれています。呪術や陰陽道に詳しい歴史作家の島崎晋氏によると、平治の乱から平氏の滅亡に至る一連の出来事は「祟り」であると、当時の人々には認識されていたようです。
※本記事は、島崎晋:著『鎌倉殿と呪術 -怨霊と怪異の幕府成立史-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
「日本国の大悪魔とならん」天狗となった崇徳院
木曾義仲に続いて、平氏一門も1185年3月24日の壇ノ浦の戦いで滅亡します。全滅ではなく、惣領の宗盛や清宗(宗盛の長男)、安徳天皇の生母である建礼門院徳子(清盛の次女)、平時忠(時子の兄)などのように生け捕りにされた者も少なくありませんでした。
平頼盛(清盛の異母弟)のように、その母・池禅尼が平治の乱に際して頼朝の助命に一役買った縁を頼りに、都落ちに同行せず、一門と袂を分かった者もいるので、伊勢平氏の血が完全に絶えたわけではありません。滅んだのはあくまで都を拠点にした武門平氏の嫡系です。
とはいえ、清盛亡きあとに一門を率いた宗盛や「平氏にあらずんば人にあらず」と豪語した時忠はもとより、一の谷で捕えられた平重衡(清盛の五男)も南都焼き討ちに際しての総大将でしたから、極刑は避けられない身でした。
西国や伊勢・伊賀国などでは、平氏残党の武装蜂起が散発的に起きていましたが、都人の関心はすでに、源頼朝と後白河法皇がうまくやっていけるのか、平氏滅亡をもって怨霊は怒りを鎮めたのか、といった点に移っていました。
この時点で人びとが恐れた怨霊は、日本史上最強の怨霊とされる早良親王(桓武天皇の異母弟)ではなく、1156年の保元の乱に敗れ、四国へ流された崇徳院でして、その呪力は早良親王に引けを取らないと認識されていました。
崇徳は鳥羽の第一皇子でしたが、天皇在位中は上皇である鳥羽が院政を敷き、鳥羽は次の天皇には末子の体仁(近衛天皇)を据え、近衛が17歳で死去すると、崇徳の第一皇子・重仁ではなく、崇徳の異母弟にあたる第四皇子の雅仁(後白河天皇)を選んでまもなく、息を引き取りました。
鳥羽院がまだ存命であったとき、崇徳院の後ろ盾となっていた左大臣の藤原頼長は、呪詛の疑いをかけられ、失脚していましたが、鳥羽の死は崇徳院・頼長側にとっては形勢を一気に覆すまたとない機会であり、後白河・藤原忠通側にとっても崇徳院側を完全に沈黙させる絶好の機会というので、双方が武士を動員して、洛中で雌雄を決することになったのです。
敗れた崇徳院は、讃岐国へ流されます。鎌倉時代前期に成立したとされる『保元物語』によれば、崇徳院は寂しさを紛らわすため、大乗経典五部の写経をして毎日を過ごし、それが完成すると、都周辺の縁ある寺にでも奉納してくれまいかと、仁和寺の覚性法親王(同母弟)に依頼します。
覚性は関白を通じて後白河天皇に申し出ますが、後白河は崇徳院に対する警戒を解いておらず、側近ナンバーワンの信西も反対したため、崇徳院の申し出は却下されただけでなく、経典も差し戻されることになりました。崇徳院の直筆に怨念が宿るとでも恐れたのでしょうが、突き返された経典を前にして、崇徳院はそれまで抑え込んでいた感情を一気に爆発させました。
「日本国の大悪魔とならん」
崇徳院は恐ろしい言葉を口にし、指の先を噛み切ると、そこから流れる血をもって誓いの書状を認めました。
それからは髪の毛も髭も剃らず、爪も切らず、生きながら天狗の姿になり、1163年8月26日に亡くなったとあります。
実際に亡くなったのは1164年8月26日で、唯一の希望であった重仁親王に先立たれたのが大きな痛手となったようです。