歴史作家の島崎晋氏によると、呪術や陰陽道が平安~鎌倉時代の生活にどのように関わったかを知ることで、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』をもっと立体的に楽しむことができるようです。たとえば、当時の出産にも「呪術」「陰陽道」が大きく関わっているのです。
※本記事は、島崎晋:著『鎌倉殿と呪術 -怨霊と怪異の幕府成立史-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
鎌倉殿の夫人として臨む初めての出産
古代から中世はじめの日本社会では、死や人体の損傷に加え、月経や妊娠、流産に出産も「穢れ」に含まれました。めでたいはずの出産がなぜ? と思われるかもしれませんが、出産を穢れとする認識は、洋の東西に関係なく古くから見られるので、人類共通の認識だったことがわかります。
強いて言えば、大量の出血を伴うこと、死産の確立が非常に高かったことなどが挙げられますが、それ以上に道理では説明し切れない範疇なのです。
北条政子は、頼朝が旗揚げする前に一度出産を経験しています。しかし、今回は鎌倉殿の夫人、御台所として臨む初めての出産ですから、東国では前例のない大がかりなものとなりました。
1182年7月12日、政子は比企能員(ひき よしかず)の屋敷に移されますが、これは御所を血の穢れから守るための措置でしょう。
比企能員は、頼朝の乳母を務めた比企尼の甥にして養子。頼朝との関係の深さゆえに選ばれたと思われますが、もしかしたら比企尼の築いた膨大な閨閥(けいばつ)も関係したかもしれません。
比企尼は頼朝の配流が決まると、夫の比企掃允とともに請所(うけどころ。荘園の管理人)として武蔵国比企郡に下り、20年にわたり頼朝への支援を続けました。3人いた娘のうち長女は頼朝の側近である安達盛長、次女は武蔵国の河越重頼、三女は伊豆国の伊東祐清に嫁がせ、三女が祐清と別れると、信濃源氏の平賀義信に再嫁させています。
少しあとには長女の生んだ娘を頼朝の異母弟範頼、次女の生んだ娘も同じく義経と結ばせるなど、頼朝を守護すべく一大閨閥を築いていました。頼朝のためとあれば、どれだけ穢れを被っても構わない。それだけの覚悟のある家ですから、出産をするにこれより適した場所はありませんでした。
加持祈祷を行う「験者」が立ち会った政子の出産
8月11日、政子が産気づくと、頼朝も比企能員の屋敷に移りました。穢れを受けるわけにいかないので、別室での待機のはずです。頼朝はただ待つのではなく、祈祷のため奉幣の使いを伊豆・箱根の両所権現や近国の神社へ遣わしました。それは以下の神社です。
- 相模国の一宮(現在の寒川神社)、同国の三浦十二天(現在の十二所神社)
- 武蔵国の六所宮(現在の大國魂神社)
- 常陸国の鹿島社
- 上総国の一宮(現在の玉前神社)
- 下総国の香取社
- 安房国の東条神館(現在の神明神社)、同国の洲崎社。
どれも一宮かそれに準じる神社です。武神を主祭神とする鹿島社と香取社は、不適切なようにも思えますが、生まれてくるのが男児であれば頼朝の後継者になるのですから、武神に男児の誕生を願うのは何もおかしくはありません。
祈祷の甲斐があってのことか、8月12日酉の刻(午後5~7時)、政子は元気な男児を出産します。幼名は万寿、のちの頼家です。比企尼の娘で河越重頼の妻が、最初の乳を与えたとあります。
同じく『吾妻鏡』の同日条には、験者として専光房阿闍梨の良暹と大法師の観修、鳴弦役として師岡兵衛尉重経、大庭平太景義、多々良権守貞義の3人、引目役として上総介広常が立ち会ったとあります。
ここにある「験者」とは加持祈祷を行い、霊験をあらわす行者のことで、鳴弦役は悪魔や妖気・穢れを払うため、弓弦を弾き鳴らす役、引目役は同じく蟇目の矢を射る役を言います。蟇目の矢はヒキガエルの鳴き声に似た異様な音響を発し、それと弓を揺らす音には魔物を退散させる効果があると信じられていたのです。陰陽道より古く、古神道に由来すると思われます。
鎌倉の人員だけでは不安だったようで、頼朝は園城寺(おんじょうじ)の円暁に来てくれるよう依頼していました。母が源為義の娘ですから、円暁は頼朝の従兄弟にあたります。祖母が源義家の娘であるなど、武門源氏とは縁深い人でした。
円暁は途中で伊勢大神宮に立ち寄り、参籠をしたため、肝心の出産には間に合わず、挨拶だけして都に戻りましたが、翌年には再び頼朝の招きを受け、鶴岡八幡宮寺若宮の初代別当として鎌倉に下ることになります。