大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、にわかに注目を集めている平安・鎌倉時代。今回のドラマで改めて、昔なんとなく勉強した日本史を思い出す人も少なくないのでは? しかし、教科書にも載ってない史実の裏側には、およそ今の時代ではあり得ない「呪術」「陰陽道」が深く関わっていると、歴史作家の島崎晋氏は語ります。源頼朝が突然の死を遂げたのも、怨霊の仕業と見る向きが多いと歴史書に残されているそうです。
※本記事は、島崎晋:著『鎌倉殿と呪術 -怨霊と怪異の幕府成立史-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
突然の死を招いた不吉な橋
曾我兄弟の仇討ち事件が起きた1193年頃には、鎌倉幕府の統治体制はほぼできあがっていました。鎌倉に置かれた政所、侍所、問注所が中央官庁にあたり、将軍家の家政と一般政務を司る政所の別当は大江広元、軍事と警察を司る侍所の別当は御家人の和田義盛、訴訟と裁判を司る問注所の執事には三善康信が任じられました。地方には守護と地頭に加え、要所ごとに奥州総奉行、京都守護、鎮西奉行も置かれました。
祭祀や宗教儀礼の面では、鶴岡八幡宮寺を中心にしながら、目的に応じて南御堂と永福寺を利用、さらには伊豆・箱根の二所権現と三島社まで出向くこともあるなど、鎌倉殿のスケジュールは祭祀と宗教儀礼で満ちていました。
陰陽道の祭祀はまだ稀でしたが、『吾妻鏡』の1190年11月6日条には頼朝の上洛について、次のような記述があります。
「激しい雨が降った。頼朝は雨にもめげず入京したかったが、道虚日ならびに衰日のため延期し、野路宿に逗留した」
衰日とは、陰陽道において万事に忌み慎むべき凶日にあたります。道虚日も同じく陰陽道で他出を嫌う日で、毎月の6日、12日、18日、24日、30日の、6の倍数の日がそれにあたりました。
頼朝の時代は、亀の歩みのようであった陰陽道に対し、仏教行事の充実は目覚ましく、『吾妻鏡』の1193年2月7日条には、頼朝が若宮別当の円暁に、法会で舞楽を披露する童舞を従来のように伊豆・箱根両山から借りるのではなく、自前で選抜するよう命じたとの記事が見られます。
ここにある舞楽とは、神仏を楽しませるために行われる雅楽の演奏と、それに合わせた舞を、童舞は男児の舞い手を言います。
若宮も創建から歳月を経て、供奉僧の門弟たちも増えたから「それでも足りない頭数は、御家人の子息から適当な少年を選び出して埋めよ」との命令が下されたのです。一見些事に思えるでしょうが、鶴岡八幡宮寺をして、鎌倉幕府を支える信仰の真の中心とするには、やはり経なければならない通過点でした。
多くの命を奪い、怨霊の祟りに心当たりがありすぎる頼朝であれば、たとえ鎌倉中を寺院仏閣で埋め尽くしたところで、真の安らぎは得られなかったかもしれません。
果たして、頼朝の最期は突然訪れます。どういうわけか、『吾妻鏡』には1196年1月から1199年1月まで3年1か月もの空白があり、後世にはそれがかえって、さまざまな憶測を呼ぶ原因となります。
他の諸史料によれば、頼朝が息を引き取ったのは1199年1月13日のことです。訃報が京へ届いたのは同月20日のことで、慈円の『愚管抄』には「夢か現(うつつ)か」、藤原定家の『明月記』には「頓死(急病)か」と、摂政近衛基通の子家実の日記『猪隅関白記』ではもう少し詳しく、1月18日条に、頼朝が飲水病(糖尿病)で重体となり、すでに11日に出家したとの情報、同月21日条には去る13日に死去とあります。
13世紀後期に成立した編年体の歴史書『百練抄』の1月13日条でも、病気や疲れを意味する「所労」を死因としていますが、単なる病死ではないとする声は当初からあったようです。
諸史料によれば、1198年12月27日、頼朝は相模川の橋供養に出席します。御家人の稲毛重成が亡き妻(北条政子の妹)の追善供養のために建造した橋で、頼朝に渡り初めを依頼したところ、頼朝はその帰り道に落馬し、回復することなく亡くなったというのです。
しかし、『吾妻鏡』が1196年から沈黙しているため、その間の病歴や病状はもちろん、落馬の原因が当人の不注意なのか、事故なのか、なんらかの病気に拠るのか、何者かの襲撃に拠るのかを探るに必要な材料が皆無なのです。