ドラマなどでも人気が高い源義経。学生時代に習った歴史の授業などで、平氏討滅の戦いにおける一番の功労者は、義経と思っている人も多いのではないでしょうか。呪術や陰陽道に詳しい歴史作家の島崎晋氏に、頼朝と義経が不仲になった理由、義経追討のために頼朝が取った方法について教えてもらいました。
※本記事は、島崎晋:著『鎌倉殿と呪術 -怨霊と怪異の幕府成立史-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
平氏討滅の功労者が源義経という微妙な定説
平氏討滅の戦いにおける一番の功労者は源義経。現在では多くの人がそう信じて疑いませんが、頼朝の代理人という義経の置かれた立場を考えると、答えは微妙にならざるをえません。
一の谷の戦いでは、誰にも先駆けの功が認められない奇襲戦術をとり、摂津国の湊では、船尾を先にして漕ぎ進める際に必要な逆櫓の設置を認めず、強風で船団が全滅する危険を冒して屋島への渡海を強行、壇ノ浦の戦いでは平氏方の水手(漕ぎ手)の射殺を命じるなど、義経のやり方は当時の常識に反することばかりでした。
義経は長く奥州にあり、実戦経験も皆無でしたから、『孫子』や『呉子』など古代中国の兵法書を忠実になぞればよいと、信じて疑わなかったのもかもしれません。しかし、鎌倉の御家人たちにしてみれば、先駆けの武功を挙げる機会を奪われ、無駄死にの危険にさらされ、非戦闘員の殺害という禁じ手までやらされたのですから、反発が高まるのも当然でした。
戦う目的にしても平氏討滅しか眼中にない義経と、安徳天皇と皇位継承の儀式で不可欠な三種の神器の確保を最優先に掲げた頼朝との相違は大きく、朝廷を絶対視する義経と、上に立てながらも交渉相手と見なす頼朝、源氏一門を特別視する義経と、一門を他の御家人と同列に置こうとする頼朝、というように両者間のズレは、平氏の滅亡とともに白日の下にさらされることになったのです。
叔父である行家が義経に接近してけしかけ、後白河院が義経を寵愛したことなどもあって、頼朝の義経に対する警戒感は明らかな敵意へと変わり、1185年10月17日、源頼朝の放った刺客が六条室町の義経邸を襲撃するに及び、とうとう収拾不可能な事態となります。
翌日、義経は後白河から頼朝追討の院宣を獲得しますが、いっこうに軍兵が集まらないため、いったん西国へ落ちることを決めます。ところが、11月6日、摂津国大物浦を出航してまもなく、暴風と逆浪に襲われて船団は散り散りになります。
その知らせを受けた頼朝は、みずから軍を率いての上洛を取りやめ、代わりに北条時政を送り込み、義経捜索の指揮を執らせるとともに、朝廷に圧力をかけさせました。
そのなかで、12月6日になされた上奏に興味深い一節があります。「行家・義経の家人や、両人に追従して謀反を唆していた人びとも、その罪の深さを取り調べて、官位にある人びとについては、それぞれ解官・停廃すべきである」というのは当然として、「僧や陰陽師の類が含まれているとの噂があるが、同じく追放すべきである」と、頼朝を呪詛した者をも処罰の対象にするよう求めているのです。
ここからは「命令に従っただけ」との言い訳は認めないとする、頼朝からの強いメッセージが感じられます。過去の罪を罰するよりも、これから先を見越しての警告です。
これには前例があって、『吾妻鏡』の1184年8月20日条によれば、頼朝は木曾義仲の祈祷師を務めたとの理由から、掃部頭安倍季弘の官職を停止すべきと注進しています。実際に処罰が下るかどうかは問題でなく、朝廷を震え上がらせるだけで効果は十分でした。