ドラマなどでも人気が高い源義経。学生時代に習った歴史の授業などで、平氏討滅の戦いにおける一番の功労者は、義経と思っている人も多いのではないでしょうか。呪術や陰陽道に詳しい歴史作家の島崎晋氏に、頼朝と義経が不仲になった理由、義経追討のために頼朝が取った方法について教えてもらいました。

※本記事は、島崎晋:著『鎌倉殿と呪術 -怨霊と怪異の幕府成立史-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

平氏討滅の功労者が源義経という微妙な定説

平氏討滅の戦いにおける一番の功労者は源義経。現在では多くの人がそう信じて疑いませんが、頼朝の代理人という義経の置かれた立場を考えると、答えは微妙にならざるをえません。

▲中尊寺所蔵の義経像 出典:ウィキメディア・コモンズ

一の谷の戦いでは、誰にも先駆けの功が認められない奇襲戦術をとり、()()国の()では、船尾を先にして漕ぎ進める際に必要な()()の設置を認めず、強風で船団が全滅する危険を冒して()()への渡海を強行、壇ノ浦の戦いでは平氏方の()()(漕ぎ手)の射殺を命じるなど、義経のやり方は当時の常識に反することばかりでした。

▲鵯越の逆落とし『源平合戦図屏風』「一ノ谷」 出典:ウィキメディア・コモンズ

義経は長く奥州にあり、実戦経験も皆無でしたから、『()()』や『()()』など古代中国の兵法書を忠実になぞればよいと、信じて疑わなかったのもかもしれません。しかし、鎌倉の御家人たちにしてみれば、先駆けの武功を挙げる機会を奪われ、無駄死にの危険にさらされ、非戦闘員の殺害という禁じ手までやらされたのですから、反発が高まるのも当然でした。

戦う目的にしても平氏討滅しか眼中にない義経と、安徳天皇と皇位継承の儀式で不可欠な()()()()の確保を最優先に掲げた頼朝との相違は大きく、朝廷を絶対視する義経と、上に立てながらも交渉相手と見なす頼朝、源氏一門を特別視する義経と、一門を他の御家人と同列に置こうとする頼朝、というように両者間のズレは、平氏の滅亡とともに白日の下にさらされることになったのです。

▲『源義経請文』義経自筆(1184年) 出典:ウィキメディア・コモンズ

叔父である行家が義経に接近してけしかけ、後白河院が義経を寵愛したことなどもあって、頼朝の義経に対する警戒感は明らかな敵意へと変わり、1185年10月17日、源頼朝の放った刺客が六条室町の義経邸を襲撃するに及び、とうとう収拾不可能な事態となります。

翌日、義経は後白河から頼朝追討の院宣を獲得しますが、いっこうに軍兵が集まらないため、いったん西国へ落ちることを決めます。ところが、11月6日、摂津国()()()を出航してまもなく、暴風と逆浪に襲われて船団は散り散りになります。

その知らせを受けた頼朝は、みずから軍を率いての上洛を取りやめ、代わりに北条時政を送り込み、義経捜索の指揮を執らせるとともに、朝廷に圧力をかけさせました。

そのなかで、12月6日になされた上奏に興味深い一節があります。「行家・義経の()()や、両人に追従して謀反を()していた人びとも、その罪の深さを取り調べて、官位にある人びとについては、それぞれ解官・())すべきである」というのは当然として、「僧や陰陽師の類が含まれているとの噂があるが、同じく追放すべきである」と、頼朝を呪詛した者をも処罰の対象にするよう求めているのです。

ここからは「命令に従っただけ」との言い訳は認めないとする、頼朝からの強いメッセージが感じられます。過去の罪を罰するよりも、これから先を見越しての警告です。

これには前例があって、『吾妻鏡』の1184年8月20日条によれば、頼朝は木曾義仲の祈祷師を務めたとの理由から、掃部頭()()()()()の官職を停止すべきと注進しています。実際に処罰が下るかどうかは問題でなく、朝廷を震え上がらせるだけで効果は十分でした。