頼朝を恨んでいた人々の亡霊が現れた

頼朝は享年53歳ですから、糖尿病の合併症で突然の発作に襲われてもおかしくはありませんが、当時の口さがない人びとが噂したのは、やはり怨霊の仕業とするものでした。

南北朝時代に成立した歴史書『保暦間記』が、その典型的な一例を取り上げています。

同書によれば、頼朝が八的ヶ原にさしかかったところ、志田義広・源義経・源行家などの亡霊が現れて睨み合いとなり、さらに稲村ヶ崎に至ると、海上に安徳天皇の亡霊が10歳ばかりの童子姿で現れ「今こそ頼朝を見つけたぞ」と叫んだというのです。

志田義広は頼朝の叔父にあたる人ですが、頼朝に背いたため、1184年5月に討ち滅されていました。義経は長い逃避行の果てに奥州で討たれ、行家も和泉国に潜伏していたところを発見され、1186年6月に誅殺されています。安徳天皇は遺体こそ発見されていませんが、二位尼(平清盛の後妻)に抱かれて入水していますので、壇ノ浦で亡くなったはずです。

安徳天皇に人を恨む感情があったかどうかは疑問ですが、他の3人が頼朝を恨んでいたことは間違いありません。ただし、怨霊として頼朝の前に現れる顔ぶれとしてベストであったかは別問題で、口承では語り手により、さまざまな組み合わせがあったのではないでしょうか。

現在、国の史跡及び天然記念物に指定されている神奈川県茅ヶ崎市町屋1丁目の「旧相模川橋脚」は、頼朝が渡り初めをした橋の橋脚跡とされ、頼朝の落馬地跡とされる神奈川県藤沢市辻堂2丁目の駐車場には、町内会による説明板が建てられていますが、辻堂と言えば、平宗盛父子を護送してきた義経が足止めを食らい、悔しい思いをした腰越(こしごえ)から5キロメートルも離れていません。

安徳天皇の怨霊も、海であればどこに現れてもおかしくないと考えれば、この2人の人選は妥当と言えましょう。

▲旧相模川橋脚 出典:いがぐり / PIXTA

それに対して、志田義広と源行家には地縁が見られませんので、この2人を含むバージョンは少数意見であった可能性が高いです。

ちなみに、相模川の橋を奉納した稲毛重成は、従兄弟の畠山重忠を讒訴(ざんそ)したとして、重忠が討ち取られてすぐ、三浦義村に誅殺されました。以来、この橋は不吉な橋として修理もされず、数間にわたり腐食が進んでいました。

1212年2月28日に源実朝が命令を下し、父頼朝が亡くなったのは武家政権ができてから20年も経過してからのこと、稲毛重成は当人の不義で天罰を受けたのであって、橋の問題とは関係がない。この橋は二所詣に欠かせない橋なので、速やかに修理をさせたうえ「今後は一切不吉と称してはならない」と命じたといいます。