近年では機密文書の情報公開などにより、さまざまな歴史的事実が明らかになっている。当時の文書を紐解くと、日中戦争を背後から煽ったソ連に対し、日本の軍部は友好関係を結ぼうとしていたそうです。評論家・情報史学研究家の江崎道朗氏が、第二次世界大戦前後の日本の動きについて、教科書には書かれていない近現代史を教示してくれました。
外務省・陸軍・海軍にも浸透していた親ソ派
実に意外なことですが、日中戦争を背後から煽ったソ連に対して、当時の日本は、なんと友好関係を結ぼうとしていたのです。
1939年8月23日、ドイツのヒトラーとスターリンとのあいだで、独ソ不可侵条約が締結されます。その直後の同年9月3日、平沼騏一郎内閣の有田八郎外相が、原田熊雄男爵(最後の元老と言われた西園寺公望の晩年の私設秘書)に対して、次のように述べています。
最近陸軍は独伊と軍事同盟を結ぼうとしてああいふ結果になり、結局失敗に帰したが、その連中が今度は独ソの不可侵条約に日本も加はつて、日独ソといふ関係で軍事同盟をやつてイギリスを叩かうといふ運動があり、謂はば左翼から右翼に転向した連中がその主動的勢力になつてゐて、すこぶる危いものである。それに陸軍の一部が共鳴してしきりにやつてゐるのである。
[『西園寺公と政局』第八巻 原田熊雄/岩波書店/2007年]
当時の日本の、それも軍部の中には、アメリカやイギリスこそが日本にとって最大の敵であり、そのためには、ソ連と組むべきだという親ソ派が存在していたのです。
この親ソ的傾向は、外務省にも広がっていました。同年11月4日、阿部信行首相は、同じく原田男爵に対して次のように述べています。
白鳥(敏夫駐イタリア・筆者注)大使がこの間帰つて来て、日独ソ同盟、要するに防共の中軸を強化して英米追出しをやらなければいかん、と言つてをつたから、自分は『英米追出しにソヴィエトの力を借りるといふ風なことは、非常によくない。物質的に力にならんのみならず、また精神的にもとても力にならん。なにはともあれ国際精神の面では日本はまだなかなか訓練されてゐないから、非常な危険を伴ふと思ふ』と白鳥には自分の反対論をはつきりよく言つておいた。(前掲書)
ソ連は、「天皇制」打倒を叫び、共産主義革命を世界各国に輸出する本拠地でした。ソ連による共産主義の脅威から日本の安全と国益を守るため、同じく反共を唱えるドイツと組もうとして、日独伊三国同盟を結んだのです。
しかし、当時の外務省の中には、共産主義を唱えるソ連と組んで《防共の中軸を強化》しようと考える外交官が少なからずいたのです。
共産主義を唱えるソ連と組むことが《防共の中軸を強化》することになるとは思えませんが、「親ソ熱が若い官吏に瀰漫(びまん)している。外務省の若い連中なんかほとんど全部が、それといってもいい様子だ」(近衛文麿談)という実態であったのです。
戦前、日本共産党は厳しく弾圧されたと言われます。確かに厳しく取り締まりを受け、事実上、解党に追い込まれましたが、その一方で、共産主義やソ連に共感を抱く学者、官僚や軍人が多数存在していたことも、また事実なのです。
外務省や陸軍の一部だけでなく、海軍もまたソ連と組むことを考えていました。
1939年(昭和14年)8月24日、海軍大佐の高木惣吉海軍省調査課長は、日本の対外政策を検討するたたき台として「対外諸政策ノ利害得失」という文書を作成しています。日本の今後の目標は「東亜新秩序ノ建設育成」にあると定め、次の4つを「根本方針」として掲げました。
一、支那事変の早期解決
二、多正面戦争の絶対阻止
三、日本、満州、中国との連携体制の強化
四、国内諸体制の整備充実
勃発からすでに2年が経過したシナ事変を早期解決しようという方針や、同時に複数の戦争を行わないようにしようという方針は当然でしょう。問題は、具体的な対外方針です。
高木海軍省調査課長は、対外方針について3つの選択肢を提示しました。
一、どことも連携しない「孤立独住政策」
二、イギリス、フランス、アメリカとの連合
三、ドイツ、イタリア、ソ連との連合
この3つの選択肢について、高木課長はそれぞれの得失を論じていますが、結論として日本が選択すべき最も有利な政策は「ドイツ、イタリア、ソ連との連合政策」であると結論づけました。
高木課長は、日本がソ連と連合できれば、日本の立場に配慮して、ソ連は蔣介石への軍事支援を中止し、蔣介石政権を降伏に追い込み、シナ事変を解決できると考えたのです。なんとも甘い見通しだと言わざるを得ません。
日本の官僚は優秀で、しっかりと外交や軍事について考えてくれているに違いないと思っている人が多いですが、戦前も戦後の現在も、優秀な官僚はごく一部に過ぎず、大半は海外事情をそれほど深く知らずに、外交や軍事に携わっていると言わざるを得ません。