第二次世界大戦において、アメリカとソ連は「正義の国」であり、日本は侵略を行った「悪い国」という認識であったが、近年では「ヴェノナ文書」「リッツキドニー文書」などの機密文書の情報公開などにより、さまざまな事実が明らかになっている。

第二次世界大戦の戦勝国であるソビエト連邦、その解体のきっかけの一端となったエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国の国民によるデモ「人間の鎖」とは? 評論家・情報史学研究家の江崎道朗氏が、戦争責任の追及まで、近現代史認識のグローバルトレンドを語る。

バルト三国独立のアピールは600キロの「人間の鎖」

バルト三国は、人口100万から300万と小さな国々で、第一次世界大戦を契機に独立しましたが、1940年にソ連に侵略・占領され、多くの人々がシベリア送りになりました。

1941年6月、今度はナチス・ドイツに侵略・占領され、ここにいた多くのユダヤ人たちが殺害されました。さらに1944年に再度、ソ連に占領され、レジスタンス運動を起こしますが、ソ連軍によって苛酷な弾圧を受け、そのままソ連邦に併合されてしまいます。

私が取材で、リトアニアの首都ヴィリニュスを訪れたときのことです。地元の女性ガイドがまず案内してくれたのが、カトリック教会の大聖堂でした。リトアニアは熱心なカトリックの国です。

▲リトアニア・ヴィリニュス歴史地区 出典:Dayo / PIXTA

この大聖堂の前の広場にある「足形」モニュメントを指差し、誇らしげにこう説明したのです。

「1989年8月23日、ソ連の支配下にあったバルト三国は、独立の意思を国際社会にアピールするため、人間の鎖というデモ活動を実施しました。約200万人が参加し、600キロ以上の鎖をつくったが、その起点がここなのです」

▲バルトの道(リトアニア) 出典:Kusurija/1989年(ウィキメディア・コモンズ)

このバルト三国による「人間の鎖」運動から、一連の東欧革命と、その後のソ連邦の解体が始まったわけです。

では、1989年8月23日とはいかなる日か。独ソ不可侵協定と秘密議定書締結50年の日なのです。つまりバルト三国が、ソ連のスターリンとナチス・ドイツのヒトラーの戦争責任を追及することから東欧革命は始まったのです。

「この大聖堂が(人間の鎖の)起点となったのは理由があるのか」と質問すると、地元ガイドは、別の一角を指差し、こう説明したのです。

「この印のあるところで3回廻って願い事をすると、聖母マリアが望みを叶えてくれるという言い伝えがあります。そこでソ連併合時代、多くのリトアニア人がここで3回廻って、ソ連邦の解体とリトアニアの独立回復を祈ったのです」

▲聖母マリアが望みを叶えてくれるといわれる印(リトアニア) 出典:masa78 / PIXTA

そこで、私もこの上で3回廻り、日本近隣の全体主義国家の解体と日本の平和を祈りました。

このヴィリニュスには、ソ連の秘密警察KGB本部跡に「KGBジェノサイド博物館」が建てられていて、観光名所になっています。ジェノサイドというと、ドイツによるユダヤ人虐殺を思い起こしますが、リトアニアにとっては何よりもソ連の秘密警察による大量虐殺を意味するわけです。

この博物館の壁には、ソ連による人権弾圧の犠牲者の写真と経歴が掲載されていて、ソ連の秘密警察によって殺された犠牲者慰霊碑には、真新しい花束が捧げられていました。遺族たちが頻繁に訪れているのです。

この博物館を運営する「リトアニアにおけるジェノサイドとレジスタンス調査センター」も訪問しましたが、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺だけでなく、ソ連によるリトアニア人虐殺と抵抗運動に関する歴史を懸命に調査し、関連の資料を収集しているといいます。

「日本から来た」と伝えると、英語の書籍やパンフレットを次々と見せてくれたので、数冊購入しました。いずれも第二次世界大戦中だけでなく、戦後も続いたソ連に対するリトアニアのレジスタンス運動と、それを弾圧するソ連の苛酷さを描いたもので、日本ではほとんど知られていない史実が、そこには示されていました。

日本も戦後、シベリア抑留に代表されるように苛酷な人権弾圧を受けましたが、そうした苦難の歴史を日本とバルト三国は共有しているのです。