「ソ連こそ理想を目指す国」という誤解

外務省、陸軍の一部、そして海軍の一部で、親ソ政策が堂々と語られていたのが戦前の日本でした。

どうして日本は、英米を敵視し、ソ連と「連合」しようと考えたのでしょうか。

信じられないかもしれませんが、当時の日本には「日本は植民地支配に苦しむアジアを解放すべきである。そしてソ連こそアジア解放の先駆者である」という“誤解”が広がっていたのです。

この反英米・親ソの対外政策を主導したのが、近衛文麿内閣の私的なシンクタンクとして、1936年(昭和11年)に設立された昭和研究会でした。主宰者は近衛のブレーンの1人だった後藤隆之助で、近衛政権が進めた「東亜新秩序」や「大政翼賛会」などに大きな影響を与えました。

総理大臣を目指す政治家は、外交・安全保障・社会保障・経済金融など、あらゆる課題について政策を打ち出すため、専門家を集めて私的な研究会をつくることが多いのです。

あらゆる課題について精通している政治家など存在しませんので、各方面の専門家を集めないと、政府を率いていくことはできません。

近衛政権の政策の基本的な方向性を打ち出そうとした昭和研究会ですが、社会主義的な政策が次々と示されたこともあって、後に「共産主義者の巣窟」と呼ばれました(念のために補足しておきますが、昭和研究会に参加していた人たち全員が、社会主義に賛同していたわけではありません)。

そして、この組織を主導していたのが1939年、雑誌『中央公論』に「東亜協同体の理論」という論文を寄稿した蝋山政道(ろうやままさみち)東京帝国大学法学部教授でした。

▲蠟山政道 出典:『衆議院要覧 昭和17年11月(乙)』(ウィキメディア・コモンズ)

蝋山教授は1940年(昭和15年)11月、海軍のシンクタンクである太平洋協会が、朝日新聞社の後援で開催した学術講演会で「大東亜広域圏論」と題した講演を行います。

蝋山教授は次のように、大アジア主義という理想を掲げたのはソ連である、と指摘しました。

地政学的に見て、大アジア主義といふものを民族解放の問題に示唆したのは、むしろモスコウ(ソ連・筆者注)であつた。そのロシヤの大アジア主義といふものを受け取つたのが三民主義の孫文である。孫文の大アジア主義といふものは、大正十二年、我国の神戸において彼が演説した中に現れてをるが、当時の日本は太平洋圏の英米協調に傾いてゐたので、大アジア主義を迎へたものは我が国ではなかつたのである。当時我国はまだまだ大アジア問題を考へるだけの思想的準備もなければ、又それだけの対外政策も持合はせて居なかつた。

蝋山教授が指摘しているのは「英米との協調を重んじたばかりに、日本は『アジア解放』の理想を掲げることができず、孫文らを味方にすることにも失敗し、日中関係はこじれてしまった」ということです。

その失敗を繰り返さないためにも、日本は英米に敵対し、ソ連のように「大アジア主義」の理想を掲げていくべきだと示唆しているのです。

イギリスやアメリカに敵対することが「アジアの一員たる日本の進路である」かのような風潮が、戦前の日本を覆っていたことを理解しておきたいものです。

※本記事は、江崎道朗:著『日本人が知らない近現代史の虚妄』(SBクリエイティブ:刊)より一部を抜粋編集したものです。