近年、さまざまな機密文書の情報公開などにより、私たちが学校教育で教えられた近現代史は「時代遅れ」になっていると江崎道朗氏は語ります。国と国との関係は、それこそ多くの国の思惑が入り交じるもの。1937年に始まった日中戦争においても、ソ連からの軍事援助が当時の蔣介石政権を助け、戦争の動向に決定的な役割を果たしていたことがわかってきました。
国際政治で勝つことを選んだ蔣介石の決断
国際政治というのは、多くの国の思惑が入り交じり、どこかの国だけを悪者にしただけでは、その実情は見えてこないものです。
シナ事変、いわゆる日中戦争もそうです。
1937年(昭和12年)7月に始まったシナ事変では、日本軍は徹底抗戦を叫ぶ中国軍相手に連戦連勝し、北京から上海、そして中国国民党政権の首都である南京まで攻め込み、南京を陥落させましたが、中国は降伏しませんでした。
戦争というのは、軍事的に勝利すれば、それで勝ちというわけではないのです。軍事的に勝っても、政治で負けるということもあるのです。そして当時の蔣介石政権は、日本を相手に軍事で勝てなくとも、国際政治で勝つことを考えていました。それは、イギリスやソ連、アメリカを味方につけるということです。
蔣介石政権が、南京を放棄して重慶に移りながら抵抗を続けることができたのは、イギリスの援助、そして同時にソ連の援助があったからです。
イギリスが援蔣ルートと呼ばれた輸送路を通じて、蔣介石政権に多大な物資補給をしていたことは当時から有名でした。
一方、ソ連からの軍事援助については、その実態についてはあまり知られていませんでしたが、現在では日中戦争の動向に決定的な役割を果たしていたことがわかっています。
シナ事変勃発後、軍事的に敗退を続けた蔣介石は、同年11月の時点でドイツの仲介による日中和平交渉に応じることを検討していました。日本軍が南京に攻めてくる前の話です。日本側も、シナ事変を拡大せず、できるだけ早く終結させたいと考えていました。
軍事物資を中国に提供し日中和平交渉を妨害するソ連
ところが11月27日、駐華ソ連大使館付武官のミハイル・イワノウィッチ・ドラトウィンという人物が、蔣介石のもとにやって来ます。当時、中国軍軍事顧問を務めていたソ連のA・カリャギンが著書『抗日の中国』(新時代社、1973年)で、次のように記しています。
ドラトウィンの到着を知らされたとき、蔣介石はただちに南京にやってくるように指示した。彼はドラトウィンがモスクワから何を土産にもって来ているのかを知りたかったのである。これは好奇心のせいではなく、重大決定を行う前夜にあったからだった。
11月28日、ドラトウィンは蔣介石に引見された。このとき彼はソビエト政府が武器の貸与について中国政府の要請を入れ、戦車や大砲がすでに送り出されていること、飛行機はその一部がすでに西安に来ていることを知らせた。
蔣介石は良いニュースを感謝し、それがちょうどよい時機に入手されたことを強調した。12月2日、徐謨(じょぼ)外交部次長に伴われて、ドイツ大使トラウトマンは南京に到着し蔣介石に引見された。
12月3日、蔣介石は自分の飛行機を漢口に飛ばせて、ドラトウィンを南京に招いた。
ドラトウィンが蔣介石の執務室に入ったとき、蔣介石は外交的挨拶を抜きにして、つぎのようにいった。
「昨日、ドイツ大使トラウトマンが、わたしのところに来ました。彼は日本政府の和平案をもって来たのです。わたしは断乎はねつけました。わたしたちは勝利の日までたたかう決意を固めました。このことをなにとぞ貴国政府に伝えて下さい」
このさい、蔣介石は武器の不足に困っていること、このような状態では長期抗戦はむずかしいことを強調した。中国国民への私心なき武器援助というソビエト政府の行為が一切を解決した。この当時ソビエト政府のこの行為を世界の進歩的な人々と西側諸国の帝国主義者たちとが、それぞれ異なった角度から評価した。
だが、つぎのことだけには疑問の余地はなかった。それはソ連の時宜をえた、かつ有効な援助が日本軍の武力と西側外交官の策謀によって、あやうく降伏しようとしていた蔣介石をくいとめたということである
著者のカリャギンによれば、シナ事変の初期、中国戦線にあった日本の軍用機は1,500機を数えていました。それに対して中国側は500機にすぎず、南京防衛戦のときに戦闘に参加できた飛行機は、わずか5機に過ぎませんでした。
ところが1937年からの2年間で、ソ連は中国に飛行機を800機以上、加えて弾薬、ガソリン、飛行機用兵器、無線通信機、給油装置などを提供しました。
当時、蔣介石政権には機関銃で月産45挺程度の生産能力しかなく、武器不足には深刻なものがありました。ソ連は1938年3月までに、機関銃8,300挺、小銃10万挺、自動車1,233台を、蔣介石政権に提供しました。
宋子文という中国国民党幹部が「中国には武器が3億元分も輸入されているので、今のところ武器の不足は感じられない」と広言していたほどの大規模な援助でした。
ソ連からの圧倒的な軍事援助のおかげで、蔣介石政権は自国の軍隊を強化し、日本軍に立ち向かうことができました。言い方を変えれば、ソ連こそが、大量の軍事物資を中国側に提供することで、日中の和平交渉を妨害していたのです。
※本記事は、江崎道朗:著『日本人が知らない近現代史の虚妄』(SBクリエイティブ:刊)より一部を抜粋編集したものです。