開戦前に盟邦ドイツの敗戦も予想していた
小野寺は、小国の情報士官たちと親しくなるために、機密費で彼らの生活の面倒をみました。戦後、旧陸軍将校らの親睦組織の機関紙『偕行』(1986年3月号「将軍は語る」)で「機密費といわれる諜報費に一番お金を使った組でしょう」と回想しています。
ちなみに連合側も、小野寺が小国の情報士官たちに資金援助をして、関係を築いたことを突き止めていたようです。米戦略情報局(OSS)は1945年7月28日付け作成の報告書で「小野寺は、数千万クローネ〔当時の1クローネは約1円にあたるため、現在の貨幣価値にして数百億円〕の活動資金を持ち、ドイツ降伏後も全欧州を把握するポストに留まる」と警戒しています。
小野寺は戦後、『週刊読売』(昭和37年1月14日号)のインタビューに答え、ドイツの敗戦をも予測して、参謀本部に開戦を回避するよう警告したと振り返っています。
- ドイツは日本が考えているように全面的に協力的ではない
- 米英を相手に戦争を始めるな。絶対にしてはならない
- もし、日本が米英に対して戦端を開くとすれば、それはおそらくヨーロッパにおける“盟邦”ドイツの勝利を期待してのことに違いないが、それは誤った期待だ。ドイツはきっと敗れる。その時になって後悔しても、もう遅い
ところが、ドイツを過大評価する大本営は、小野寺の警告を黙殺し、一顧だにしませんでした。
ヒトラーに幻惑された駐独大使・大島浩
日本が開戦の決定を下すうえで、最も重要だったのが欧州の戦局の情勢です。それを判断する中心的な役割を果たしていたのが、ドイツの首都ベルリンの日本大使館でした。
当時の駐独大使・大島浩は、「電撃戦」(ブリッツクリーク)によって数カ月で欧州をほぼ制覇したドイツの圧勝を信じて疑いませんでした。したがって日本政府も、ドイツの欧州制覇を前提に米英を牽制し、泥沼の日中戦争を終結させる計画を立てていたのです。当時の日本にとって、ドイツの敗北は「不都合な真実」でした。
「6週間の短期決戦で終わらせるから、日本の援助は必要ない」。小国の情報士官をニュースソースとする小野寺とは対照的に、ナチスドイツの総統・ヒトラーからトップダウンで、このように耳打ちされた大島大使は「ソ連が攻略されるのは間違いない」と外務省に報告しました。
これを無批判に受け止めた日本政府は、1941年秋から始まった御前会議でも「ドイツが欧州で勝つのは確実なので、参戦しても負けることはない」との結論を出してしまいます。そして、同年12月、勝算なき無謀な戦端を開いたのでした。
皮肉にも真珠湾攻撃開始直前の12月6日、モスクワ近郊でソ連軍の一斉反攻が始まり、補給が途絶えたドイツ軍は大敗北を喫しました。ソ連侵攻が挫折の綻(ほころ)びを見せた折に、日本は対米英戦に突入したことになります。誠に残念な開戦だったといえます。