ドイツ軍の「棺桶準備」でソ連侵攻を見抜く

当時の日本は、小野寺の警告を無視して開戦に突入していきました。しかし、小野寺の情報が大本営で活かされなかったのは、それが最初ではありません。彼が1941年1月にスウェーデンに赴任して以来続いていたことでした。

当時欧州では、不倶戴天(ふぐたいてん)の敵だったドイツのヒトラーとソ連のスターリンが、独ソ不可侵条約の秘密協定を結び、1939年9月にドイツが突如としてポーランドに侵攻したことで、第二次大戦が勃発していました。

▲独ソ不可侵条約に調印するソ連外相モロトフ 出典:アメリカ国立公文書記録管理局(ウィキメディア・コモンズ)

ドイツの快進撃に拍車がかかるなか、北欧の都に赴任した小野寺の最初の任務は「ドイツ軍は5月、6月、英仏海峡を渡り、進攻する。関連情報を報告せよ」という、ドイツの英本土侵攻作戦の確認でした。

1940年9月、日独伊三国同盟を調印した日本は、“バスに乗り遅れるな”と北部仏印に進駐し、欧州でのドイツ優位に呼応する形で国策を決定しようとしていたからです。

当時の松岡洋右外相は、三国同盟にソ連を加えた「枢軸四国協定」を結べば、英米連合軍に対抗できるという希望的観測を抱いていました。そして、独ソ蜜月を背景に、ドイツが英国を屈服させ、米英を牽制(けんせい)することで、泥沼の日中戦争を終息できると夢想していたのです。したがって、ドイツが英国ではなく、ソ連に侵攻することもまた「不都合な真実」だったわけです。

小野寺が情勢分析したところ、「バトル・オブ・ブリテン」〔1940年7月~10月に、ドイツ空軍と英空軍が、英国上空とドーバー海峡で展開した航空戦〕で英国に惨敗したドイツは、制空権を握れず、大西洋でも制海権を握っておらず、当時ドイツが計画していたという「英本土上陸作戦」を裏書きするような証拠は見つかっていませんでした。

反対に、小野寺のもとには「ドイツ軍が独ソ不可侵条約を破棄して、ソ連へ奇襲攻撃する準備をしている」という情報が次々と寄せられたのです。

ここでも役立ったのはリビコフスキの機密情報でした。ベルリンで暗躍する彼の部下から、耳よりの情報が入りました。「ドイツ軍がソ連との開戦に備え、ソ連国境に近いポーランド領内に集結し、棺桶を準備している」。ドイツ軍は作戦開始の際、戦死者を弔うため、事前に兵士のための棺桶を用意する習慣があったのです。