ポーランド亡命政府から「ソ連が裏切る」という、日本にとって敗戦を決定づける近代史上最大級の情報が、諜報の神様と呼ばれた小野寺信(まこと)に届けられました。これは、ポーランドから日本への“返礼”であったと産経新聞論説委員の岡部伸氏は語ります。
※本記事は、岡部伸:著『至誠の日本インテリジェンス -世界が称賛した帝国陸軍の奇跡-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
国外退去後も情報を送り続けたリビコフスキ
小野寺がドイツ劣勢の判断を下した情勢分析で最も役立ったのは、ペーター・イワノフと名乗り、通訳官として日本の陸軍武官室に勤務していたポーランドの大物インテリジェンス・オフィサー、ミハウ・リビコフスキからの情報でした。
リビコフスキは1944年3月31日、英国の首都ロンドンに移りました。ドイツからの圧力に抗しきれず、同1月、スウェーデン政府が「秩序を乱して好ましくない」と「ペルソナ・ノングラータ」(好ましからざる人物)として国外退去を命じたためでした。
小野寺はリビコフスキの退去理由を百合子夫人に「単に女の問題だ」と説明しました。スウェーデン秘密警察調書によると、リビコフスキには70人の協力者がいて、大部分は恋愛関係となった女性というから驚きです。
男気あるリビコフスキに女性は魅了されたのでしょう。彼は反ナチスの女性を操り、ドイツの会社にサボタージュや人間を媒介とした諜報活動の「ヒューミント」を仕掛けていました。
国外退去を命じられたリビコフスキは、小野寺に「(退去先の)ロンドンからも引き続き日本のために情報を送る」と約束しました。
『小野寺信回想録』によると、ロンドンの亡命ポーランド情報部が手に入れた情報は、今後、小野寺とリガ武官時代以来の旧知であったストックホルム駐在ポーランド武官、フェリックス・ブルジエスクウィンスキーを仲介して、ロシア語で伝達するという約束でした。
その後、バッキンガム宮殿に近いルーベンスホテルにあった亡命政府陸軍参謀本部に登庁したリビコフスキは、ポーランド軍に復帰し、旅団長としてイタリア戦線に赴きました。リビコフスキに代わって小野寺に情報を送り続けたのは、上司の情報部長、スタニスロー・ガノ大佐でした。
「今度は我々が日本を救う」と至宝の情報が提供される
そして、1945年2月4日のヤルタ会談直後の同月中旬、小野寺のもとに「ソ連が裏切る」という日本の命運に関わる密約情報が届きます。
このヤルタ密約情報を送信したのも、リビコフスキの直属の上司、ガノでした。リビコフスキに代わり、ガノによって小野寺との約束は果たされたのです。
『小野寺信回想録』によると、午後8時から始まる夕食前、ブルジェスクウィンスキーの長男の少年が、らせん階段を最上階の5階まで駆け上がり、小野寺の自宅郵便受けに手紙を落としました。手紙には、こう書かれていました。
「ソ連はドイツ降伏より、3カ月を準備期間として、対日参戦する」
小野寺は直ちに中央(参謀本部次長宛)に打電しました。
ポーランド亡命政府の参謀本部情報部長であるガノが情報を届けたということは、同政府が「公式」に日本に密約を渡したことを意味します。小野寺も旧陸軍将校の親睦組織の機関誌『偕行』(1986年4月号「将軍は語る」)で、当時送られた情報が「ポーランド亡命政府の公式情報だった」と証言しています。
日本にとって敗戦を決定づける近代史上最大級の情報は、ポーランドからすれば、長年の日本の厚意――日露戦争でのポーランド人捕虜への寛容な扱い、シベリアでのポーランド人孤児救出、杉原千畝の「命のビザ」、そして小野寺のリビコフスキ庇護への“返礼”であり、「今度は我々が日本を救う」との思いの表れでした。
小野寺や杉原が自己犠牲をいとわず、公に報じる誠実な「日本精神」の諜報活動をポーランドの情報士官と重ねたからこそ、そして、小野寺の誠実な人柄を信用していたからこそ、ポーランドはヤルタ密約という「至宝」を惜しげもなく提供したのでしょう。
終戦後、日本に引き揚げる小野寺に、ガノは次のようなメッセージを贈りました。
「あなたは真のポーランドの友人です。長い間の協力と信頼に感謝し、もしも帰国して新生日本の体制があなたと合わなければ、どうか家族とともに全員で、ポーランド亡命政府に身を寄せてください。ポーランドは経済的保障のみならず身体保護を喜んで行いたい」
祖国をソ連に奪われ、共産化への道を辿ったポーランドの人々は、世界の誰よりもスターリニズムの恐怖を皮膚感覚で知っていました。ソ連が攻めて来たら、ただではすまないことを熟知していたからこそガノは、小野寺にソ連参戦のヤルタ密約を伝え、戦後の身を案じたのでしょう。
不幸にもヤルタ密約の情報は、ソ連に傾斜する参謀本部の中枢で握りつぶされ、日本の政策を変えるには至りませんでした。
しかし、その情報をもたらしてくれたポーランドの人たちの熱い思い。そして、彼らから絶大な信頼を受けて情報を提供され、戦火の欧州で祖国を救うべく奔走した誠実な日本人がいたことを私たちは誇りにしたいと思います。