戦前の日本は、情報収集の面では必ずしも連合国に“完敗”していませんでした。その根拠として、インテリジェンス大国のイギリスが小野寺信(まこと)のことを、国際基準で第一級の情報士官と認めて、徹底マークしていたことが英国立公文書所蔵の公文書からわかると、産経新聞論説委員の岡部伸氏は指摘します。
※本記事は、岡部伸:著『至誠の日本インテリジェンス -世界が称賛した帝国陸軍の奇跡-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
参謀本部に握りつぶされた小野寺情報
戦前の日本は、小野寺がソ連の対日参戦の「第一報」をスクープしたように、情報収集では必ずしも連合国に“完敗”していませんでした。
問題は、それを処理する受け手の側にありました。小野寺は、ヤルタ密約情報だけではなく「ドイツが英国ではなく、ソ連に侵攻する予測情報」「独ソ開戦後のドイツが苦戦している情報」なども伝えましたが、日本の中枢は、それらを国家の舵取りに活かせなかったのです。結果的に小野寺の働きは徒労に終わってしまったと言えます。
参謀本部作戦課は「作戦重視、情報軽視」で、小野寺ら海外の第一線で集めた情報を重視せず、自らが立てた作戦に合致する情報しか用いない傾向にありました。
政策担当が情報を扱う際には、情報収集と分析結果が、自らの望む政策によって影響を受けないようにするのが原則です。そうでなければ、客観的な状況把握など不可能です。
開戦前から「ドイツが英国を屈服させて欧州戦で勝利する」という希望的観測から立てた、枢軸四国同盟構想の作戦が“大前提”にあり、そこから外れた情報を頑なに拒絶した参謀本部の「作戦重視、情報軽視」は敗戦直前まで続きました。その結果、日本は未曽有の敗戦を迎えることになったのです。
大戦末期、政権中枢にソ連コミンテルンによる浸透工作を許した日本は、防諜(カウンター・インテリジェンス)の欠陥を露呈したといえます。先の大戦の失敗として、何より教訓とすべき点でしょう。
ドイツ随一の情報家クレーマーと情報交換
1944年3月、リビコフスキが亡命政府のあったロンドンに退去すると、小野寺はハンガリーの駐在武官補佐官、ヴェチケンジーの紹介で、ドイツ随一の情報士官といわれたカール・ハインツ・クレーマーと知り合い、枢軸同盟国の情報士官とも親密に連携を始めました。
クレーマーは、ドイツ北西部ニーダザクセン州に生まれ、法学博士号を持つ弁護士から、ドイツ国防軍情報部(アブヴェール)に参加したという経歴の持ち主です。
戦後、小野寺はクレーマーを「ドイツ随一の情報家で、ドイツの情報機関のスウェーデンでの親玉。諜報部長(長官)シェレンベルクの直属の部下」(『偕行』1986年4月号)と評し、彼が英米情報の専門家だったため「クレーマーが西側(英米)、日本(小野寺)は東側(ソ連)を分担して情報収集し、ギブアンドテイクがうまくいった」と家族に語っています。
一方、クレーマーも敗戦後にロンドンで行われた英秘密情報部(SIS、通称MI6)の尋問で小野寺について、「ストックホルムで最も重要な情報源」だと答えています。
クレーマーは、自分が小野寺に与える情報より、小野寺から提供される情報のほうが質量ともに高かったため、小野寺に総額で1万から2万クローネ(当時の1クローネは約1円にあたり、当時の1円は現在の貨幣価値の約1000円に相当するため約1000万円から2000万円)の報酬を支払いました。彼は小野寺情報によって「ドイツ情報部門の北欧での第一人者になった」とさえ述べています。