マウンドでの味方は“ロジン”しかいない

晴れて川尻さんは、1994年のドラフト4位で阪神タイガースに入団する。同じ年のドラフトには城島健司(福岡ダイエーホークス ドラフト1位)や稲葉篤紀(ヤクルトスワローズ ドラフト3位)がいる。

プロに入った選手は、最初のキャンプで先輩選手たちを見て、自分とのレベルの違いに愕然とする、というのはよく聞く話だが、1年目から8勝をあげた川尻さんはどうだったのか。

「キャンプでブルペンに入って、周りに球に勢いがある人っていうのはもちろんいたけど、自分の納得がいくボールを投げられていたら、プロでもそうそう打たれないだろうっていう自信があったから、そこで愕然とするってことはなかったかな。25歳を過ぎてプロ入りしているし、ダメだったらすぐクビになる。ドラフトの順位関係なしに、即戦力というのを求められているから」

入団前の期待とは裏腹に活躍できない選手もいれば、ドラフトの順位は決して高くないが、活躍する選手もいるのがプロ野球の世界だ。

「自分は入団して、そこがスタートだと思ってた。言葉にすると当たり前のことに聞こえるんだけど、契約金もたくさんもらうし、プロに入った満足感、達成感ってすごいから、入団したところをゴールみたいに思っちゃう選手もいるし、その気持ちはよくわかるけど、俺は“ここからだ”って気を引き締めたね」

▲川尻さんが入団した1995年はタイガースにとって良い年とは言えなかった

1995年の阪神タイガースは球団創立60周年。1月に阪神・淡路大震災が起こり、満足に自主トレもできないチーム状況だったが、オープン戦は首位。しかし、シーズンに入るといきなり開幕5連敗を喫し、その後一度も勝ち越すことがないまま、前半戦で成績不振の責任を取り、中村勝広監督が休養。

その後、2軍監督の藤田平が監督代行を務めるが、最終的に首位から36ゲーム離されたぶっちぎりの最下位であった。そんなチームにあって、川尻さんはルーキーながらローテーションに入り、8勝をあげ、規定投球回数もクリア。新人にしては上出来すぎる成績を収めた。

「オープン戦で少し打たれちゃって2軍スタートだったんだけど、チームの状態があまり良くなかったのもあって、4月の終わりには1軍に呼ばれて、すぐ勝ち星がついて、そこからはずっと1軍に帯同できたんだよね。これは幸運なことかもしれないけど、プロ入りから引退まで技術的なことでコーチから直されたことがほぼなくて。そもそも、サイドスローを教えられる人って限られているから」

有望な選手であっても、監督やコーチの言うことを聞きすぎて、フォームを崩してしまって、本来の実力を発揮できぬままクビになるのはよく聞く話だ。

「その後も、直したいコーチから口うるさく言われたことはあったけど、本当に聞かなかったな(笑)。生意気って思われるかもしれないけど、プロで長く生き残っていくには、調子が上がらないのは体が疲れているだけなのか、それともどこかが崩れているのかを見極めること。なぜなら自分の体は自分が1番わかっているから。人に言われて直したとして、その直後は良くても、それが狂ったときに自分じゃ直せなくなっちゃう」

人の言うことは鵜呑みにしない、そんな川尻さんにも、大切にしている言葉がある。

「『マウンドでの味方はロジン(バック、滑り止め)しかいない』。これは、高校のときに読んだ江夏豊さんの本に書いてあったんだけど、本当にそうだなって思って。打たれたら叩きつけたり、けっこう雑に扱う選手も多いんだけど、僕は絶対にしっかり足元に置くようにしてた」

この言葉は、川尻さんにどんな効果をもたらしたのだろうか。

「ロジンを丁寧に扱う、それは自分が打たれたとしても冷静さを取り戻す、ひとつのルーティーンだったかもしれない。自分が完璧なフォームであれば、ピッチャーもそうそう打たれないし、バッターもいい成績を残せる。みんなそれができないのは、カッカしちゃって、いつものフォームでパフォーマンスできてないからだと思う。」