「ノーヒットノーラン」。この言葉、野球に明るくない人でも、なんとなく“スゴいこと”として認識しているのではないだろうか。相手チームに1本のヒットも許さず、試合を成立させることで、100年に迫るプロ野球の歴史の中で、93回しか達成されていない記録である。

そんなノーヒットノーランを1998年に達成したのが、元阪神タイガースの川尻哲郎さん。暗黒時代と呼ばれた90年代後半のタイガースにおいて、3度の2桁勝利を記録するなど、ローテーションの中心として活躍した。

現在、川尻さんは東京・新橋で居酒屋「TlGER STADIUM」を経営。営業日は必ずお店に立ち、試合のある日はビジョンにゲームの模様を流しながら、来店客に解説を行っている。

プロ野球選手になれるのは、ほんのひと握り。その中でも活躍できるのはもっと少ない。輝かしい記録を残した川尻さんに「人生の土壇場」はあるのだろうか? そう問うと“いや、土壇場のほうが多かったな”と明かしてくれた。

▲営業日は必ずお店に立つという川尻さん

同期は8球団が1位競合、その一方で川尻は・・・

川尻さんは1969年、東京都中野区生まれ。実家は酒屋を営んでいた。

「親父が草野球の監督をやっていて、それについて行ってたんで、小さい頃から自然と野球は近くにあったね。年上のおじさんたちのキャッチボールの相手をしたり(笑)」

小さい頃は野球に打ち込む日々。高校は日大二高に進学し、西東京大会で準決勝まで進むが、甲子園出場は果たせなかった。その後、亜細亜大学に進学する。

「今でこそスポーツはいろいろあるけど、当時は野球の時代だったからね。プロ野球選手になりたいなって漠然と思ってたけど、でも大学に行って、レベルの差をまざまざと見せつけられたかな」

▲当時を思い出しながら丁寧に答えてくれた

当時の亜細亜大学、川尻さんの同期には、ドラフト史上最多の8球団競合を記録した小池秀郎(元近鉄)、昨年スワローズを率いて日本一となった高津臣吾がいた。

「ちょっと見ただけでも俺よりスゴいなって選手がいっぱいいたから。大学のときも、小池、高津、その次の次、自分は4番手投手とかだったよね。客観的に見て、スピードがあるわけじゃない、小池を見たときに“ああ、こういう投手がプロに行くんだろうな”って素直に思ったし。与田さん(与田剛)も先輩でいて、あの方の場合は社会人(野球)にいってから覚醒して、プロから声がかかるわけだけど、大学のときも球の勢いが他の投手とは全然違った」

大学4年生になり、同期の小池がドラフト1位で8球団が競合(ロッテが交渉権を獲得するが、入団拒否)、高津もドラフト3位でヤクルトスワローズに指名された。その一方、川尻さんは……。

「ドラフトにかすりもしなかったね、だってスカウトから声をかけられたこともなかったんだから(笑)。どっかで諦めなきゃいけないっていうのはわかってたけど、とにかく野球が好きだったから、とりあえず納得がいくところまでは頑張ってみようと思って、社会人野球の日産自動車に進んだんだよね」

川尻さんの代名詞といえば、サイドスロー。多くの投手が上から腕を振るオーバースローで投げるのに対し、横から投げる彼の姿を憶えている野球ファンも多いだろう。この投法は野球を始めた頃からだったのか。

「いや、それこそ社会人に入ってからだね。社会人に入って2年目まではオーバースローだったんだけど、社会人野球をやってる人にとってメインとなるのは都市対抗野球。でも俺は2年になっても、そのベンチにすら入ってなくて」

3年や4年という明確な期限がある高校や大学と違い、社会人野球には期限がない。しかし、プロのスカウトが目をつけるのは社会人に入って2年目までと言われている。まさに土壇場だった。

「周りからは、2年目で惜しくもなんともない時点で“やめろやめろ”って感じだった。プロを目指す人にとっては、2年目までが勝負、というのが普通だったから。でも、ちょうどそのとき、1年の新入生が少なくて、それで野球部に残してもらったんだよね」

サイドスローに変えて1年でドラフト候補に

まさに首の皮1枚で残った川尻さんのプロへの道。そこで、当時の監督とコーチから言われた「サイドスローで投げてみれば?」という言葉。これが彼の運命を大きく変える。

「チームにひとりでも右のサイドスローがいれば、相手チームに右バッターの強打者がいた場合ワンポイントで出せる。つまり、使い勝手がいいからね。社会人野球の都市対抗には“補強選手”っていう、勝ったチームが同じ地区予選で敗れたチームから助っ人を呼ぶことができる制度があるんだけど、変速投法の選手は他のチームからも注目されやすいし、都市対抗に出たらスカウトの目にも止まりやすい。チームのためになるし、プロに行きたい自分の最後の手段だよね」

右バッターにとって、右のサイドスローは球の出どころが見えにくく、打ちづらい。チームとしては、2年目までベンチにも入れなかった選手が少しでも使い物になったら、という考えもあったのかもしれない。

「でも、変えてすぐに自分の中で“あれ? いい球いってるな”って感覚があったんだよね。それは自分の中でも、せっかく変えたんだからとことんやらなきゃいけない、という気持ちもあったから、練習への取り組み方が変わったというのもあったと思う。けれど、サイドスローが自分に合っていた、というのは自信を持って言えるかな」

▲サイドスローが川尻さんの運命を変えたことは間違いない

サイドスローで投げ出したと同時に、これまでベンチにも入れなかった選手が、登板の機会に恵まれるようになり、日本選手権でチームは準優勝を果たし、川尻さんも敢闘賞を受賞する。社会人3年目のことだった。

「サイドに変えて1年もしないうちに、いろいろなことがガラッと変わったんだよね。全日本の代表にも選ばれて。自分の中でも、“あ、この球投げてたらプロにいけるかもしれないな”って感触があった。当時、社会人はまだ金属バットだったから、力だけじゃない、かわす投球術みたいなのも覚えたね。こういう投手、プロにもあまりいないんじゃないかな、とは思ってたな」

社会人4年目、大学のときは1球団も来なかったスカウトが、ほぼ全球団、川尻さんに会いに来たという。

「巨人、近鉄、中日、オリックス……。阪神以外にも熱心な球団は多かったけど、当時、日産では抑えをやっていて、ドラフトの前にサヨナラホームランを打たれたんだよね。それでいくつかの球団がトーンダウンして。その中でも最後まで熱心で見に来てくれてたのがタイガースだったから。タイガースのスカウトからは“他のスカウトが来ても「もう決めてます」って断ってくれ”って言われてたから、まあ声がかかるんだろうなとは思ってたけど、実際に指名された時はうれしかったね」