ノーヒットノーランの当日は朝まで飲んでた!?

1995年は最下位だった阪神タイガース。1996年はそのまま監督代行だった藤田平が監督を務めたが、結果は2年連続の最下位。翌年以降も監督をやるつもりだった藤田の、途中休養から解任に至るまでのゴタゴタは「阪神お得意のお家騒動」と揶揄され、成績も振るわなかったことから良い印象をもたないファンも多い。

「藤田さんは昔気質の人で、よく思ってない選手もいたと思う。それこそ、1995年のオフに新庄が「センスがないので引退します」って急に言いだしたのも、藤田さんに正座させられたのが原因だし。でも俺は正直好きだったな、だって自分のことを使ってくれたから。プロ野球選手にとってみたら、どんなに人間性が合わなくても、使ってくれたら好きになるし、めちゃくちゃいい人でも干されたら嫌いになるし。そういうもんだと思う」

▲川尻さんの口から語られる選手の素顔はどれも魅力的だった

当時のタイガースは全てがバラバラだった。どんなに弱くてもある程度の観客は入るし、マスコミにも取り上げられる。強くしようと補強を球団に頼んでも、震災の影響でお金は出せなかった。そんな球団にとって、野球と阪神を愛するがあまり、全てに口出しし過ぎる藤田監督はフロント、選手両方から好まれていなかった。

「でもね。当時、山本晴三さんってトレーニングコーチがいたんだけど、俺たち選手に“お前らな、監督の悪口言ってるけど、あの人ああ見えて誰にも言わずに、選手が怪我しないようにって神社にお参りに行ったりしてるんだぞ”って。そういうことをひけらかしたりしないし、すごく不器用な方だったんだろうなって思うね」

97年は新監督に吉田義男を迎えて5位。しかし翌年の98年は、また首位から27ゲーム離されての最下位。8月には球団新記録となる12連敗を喫する。この年の希望といえば、2リーグ制以降の新人最高打率を記録した坪井智哉と、5月26日、倉敷マスカットスタジアムの中日ドラゴンズ戦で記録した、川尻さんのノーヒットノーランだった。

「この日は、前日にすごい深酒をしちゃって……ホテルに戻ったのは朝だったな。ホームでは登板前日はあまり飲まないんだけど、地方に行くとやっぱりね(笑)。ホテルにいてもやっぱりちょっと緊張してるのか眠れないし、だから飲もうと思って。あと、このちょっと前に深酒して登板したら結果が良くて、そのゲン担ぎもあったんだけど、まあ普通に飲みすぎて寝過ごしちゃったね(笑)」

当時のスコアを紐解くと、サードがハンセン、レフトがパウエルという、お世辞にも守備が良いとは言えない選手がスタメンに名を連ねる。

「たぶん、あまりその2人のところには飛んで来なかったんじゃないかな(笑)。でも、たしか三振が1番少ないノーヒットノーランなんだよね。李鍾範(リー・ジョンボム)から初回に取った1個だけだったと思うんだけど、すごく粘られたのを覚えてる。あと南渕(時高)さんが5番なのは、俺にタイミングが合ってたんだよね」

200勝投手でも、ノーヒットノーランをしたことがない投手はザラにいる。それだけ歴史に名が残る偉業を川尻さんはやってのけたわけだが、当時の思い出について聞くと、

「このお店でもよくこの試合を流してるし、自分でも聞かれることが多いから見返すことが多いんだけど、やっぱり回を追うごとに緊張してるなって思うね(笑)。東京ドームで練習してると、バックスクリーンのビジョンに、上田次朗さんが9回ツーアウトから長嶋茂雄さんにヒット打たれて、ノーヒットノーランを逃す映像が流れるんだけど、そのことを思い出してた(笑)」

最後のバッター、神野純一を外角に逃げるスライダーでショートゴロに切って取る。プロ野球66人目、77度目のノーヒットノーランだった。吉田監督は「今年初めてうちに春が来た」と喜んだ。

「この試合、2点取ってるんだけど、1点は新庄のタイムリー、もう1点は俺のスクイズ、けっこうバッティングも記憶に残るところで頑張ってるんだよ(笑)」

≫≫≫ 明日公開の後編へ続く


プロフィール
 
川尻 哲郎(かわじり・てつろう)
1969年1月5日生まれ。日大二高-亜細亜大-日産自動車(1994年4位)‐阪神タイガース(95~03)‐大阪近鉄バファローズ(04)‐東北楽天ゴールデンイーグルス(05)。通算60勝72敗3セーブ